Monthly Archives: 1月 2011

『旧約聖書』God~ヨブ記~

 やっと聖書も中間地点。ここにきてヨブ記は面白かった。
 ここまで「神は怖いんだぞ!黙って信じていろ!」ってな雰囲気でつまらないなあと思っていたが、ここで急に変わってきた。

ヨブという神を畏れる無垢な素晴らしい富豪がおりました。
ある日神の所にサタンが来ました。
サタン「あいつは財産あるし健康体だからあんたを敬ってるんだよ」
神「ふーん。じゃあ好きなようにやってみていいよ」
ヨブは財産略奪、皮膚病に侵され激しい苦痛に
ヨブは最初は神を敬うも、神への愚痴モードに
友人が何人か来てヨブの愚痴を諫めるも、ヨブを説得できず
最後には神様が出てきて「ざけんな。俺がてめえ作ってやったんだぞ。」
ヨブ「ははあ、お代官様」
神「いいよ!ヨブは許してあげる!友人は正しいことを言わなかったからゆるさん」
ヨブはまた富豪になって幸せに暮らしましたとさ。
という素晴らしい物語。

 この中で何よりも面白のは神への愚痴。
 神を信じてコツコツ生きてきたのに、突然の仕打ち。長男一家は殺され、財産を奪われ、重い病に侵されてトコトン悲観にくれます。

なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
ヨブ記3章11

もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。
ほうっておいてください
わたしの一生は空しいのです。
ヨブ記7章16

 そりゃあこうなるよ。
 そして神の存在自体に文句を言い始めます。

なぜ、神に逆らう者が生き永らえ
年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
ヨブ記21章7

神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い
神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。
藁のように風に吹き散らされ
もみ殻のように突風に吹き飛ばされたことがあろうか。
神は彼への罰をその子らの代にまで延ばしておられるのか。
彼自身を罰して思い知らせてくださればよいのに
ヨブ記21章17-19

 他にも、正に現代人としても神に一言申したいこと満載。

 ところで、神に文句たれたヨブは最終的に神に再び認めて貰い。友人は神のために議論したのに、なぜか神に罰せられる。。
 このことについてこんな記述を見つけたわけで、

この、結びの章すべてに見られるこれら律法無視や過剰な応報は、モーセ律法の応報主義のパロディ、痛烈な批判でなくて、何でしょう。
63.ヨブ記Ⅲ(モーセ律法のパロディ)より

 ヨブ記は、旧約聖書自体を批判していると言うではありませぬか!そもそも聖書はそれぞれ作者が違っていて、内容もそれぞれとなっているわけです。その中に1人くらいこっそり批判が入っていてもいいのかもしれない。
 もちろん表向きは、「結局神は畏れるべきなのだ」という結論に持っていけるようにも読める。しかし、そんなに薄っぺらい批判じゃなく、批判に対する批判も様になっていない。

 旧約聖書への批判だという根拠として
・旧約聖書においては寿命は120歳とされているのに、ヨブは140歳まで生きたとされている。
・女性は相続権にもかかわらず、ヨブの娘は相続権を得ている。
 このような点から、ヨブ記は聖書自体への痛烈な批判という位置づけなのではないかと。
 そう思って読むと全然面白い。やっと聖書が面白いという意味が分かってきた。

詳しくは江礼宮夫さんという方の解説
61.ヨブ記Ⅰ(律法者ヨブの絶望と癒し)
62.ヨブ記Ⅱ(カウンセリングの逐語録)
63.ヨブ記Ⅲ(モーセ律法のパロディ)

映画『チェンジリング』『ウォール街』

 のまえにちょいと別の紹介。
 話の発端は、朝日新聞ががんワクチンの臨床試験にいちゃんもんを付けたこと⇒ここ参照
 これに真面目(特に医者の「真面目に」ってのはレベルが違うと思うが)に取り組んでいるお医者様から朝日新聞が猛反撃を食らっているところです。以下はその反論の一部。文字ではあるがナチスが行った人体実験について書いてあります。文章ですが完全にグロイです。
 なんつーか臨床試験についても考えさせられる文章です。これががんワクチンとなるとまた。特にがんって身近だしね。
これ⇒⇒ Ex 東大医科研「がんペプチドワクチン臨床試験」は人体実験か?
メールマガジンJMMの「絶望の中の希望~現場からの医療改革レポート /上昌広」 より
文章書かれているのは 鹿鳴荘病理研究所 広島大学名誉教授 難波紘二さん
 
 かなり衝撃受けたのでご紹介。
 一応書くけど、「証拠出せそれってねつ造じゃないのか?」という反論に対して朝日新聞は「法的措置を検討します」ってな内容証明を送ってきているとか。言論で勝負してほしいもんですなあ。意見を言うまではいいが、これだけの立派な反論に法的手段じゃあその言論の質を疑わざる終えないねえ。
 言葉の難しさは大学新聞を作った人間でも学んだことなんだけどねえ(笑)

チェンジリング
監督:クリント・イーストウッド
出演者:アンジェリーナ・ジョリー,ジョン・マルコヴィッチ・・・
脚本:J・マイケル・ストラジンスキー
日本公開:2009年2月20日

ウォール街
監督:オリバー・ストーン
出演者:マイケル・ダグラス,チャーリー・シーン
ダリル・ハンナ,マーチン・シーン
日本公開:1988年4月16日

 チェンジリングは、ゴードン・ノースコット事件という事件を元にした映画だそうで。素晴らしい映画だった。
 子どもが誘拐されて、5ヶ月後に見つかったと思ったら他人の子。しかし警察はそれを認めず精神病院に押し込められる。息子違いが判明して精神病院を出られることになったと思ったら、「死亡した」という情報により判明したと。
 母強し。実話だってんだから全く。

 ウォール街はMartin Sheenがいただけで満足。ザ・ホワイトハウスにしか見えないから不思議。いやーかっこいいわ。一番良い役もってってたしなあ。うんうん。
 この前「ハゲタカ」も見たけど全く同じ映画かと思ったわけで。なは。最もウォール街の方が規模がでかくて派手だったけど。
 昔は朝5時くらいにおきてモーニングサテライトみたもんだ。ニューヨーク市場の終わりの金を朝に聞く。時差を感じたもんだなあ。

以上見たという記録だけ

映画『告発』Marc Rocco

監督: マーク・ロッコ
出演: クリスチャン・スレイター, ケヴィン・ベーコン, ゲイリー・オールドマン

日本国憲法
第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 借りてきた映画を見るのは久しぶり。英語も一ヶ月くらい勉強し始めて大体言っていることがわかるようになったね。嘘です。全然聞き取れません。ってか声と顔が一致しません。困ったもんだ。
 大好物自作ケチャップオムライスを食べながら見ていたのですが、序盤30分の痛々しい場面でのケチャップは台無しでした(><)

 5ドルを窃盗した罪で捕まったヘンリー・ヤングは、アルカトロズ刑務所に送られる。おとなしくしておけばいいモノを脱走を試み、相棒にちくられて失敗。独房に3年間(当時19日が平均)入れられ、やっと出られたところで、スプーンでそのちくった相棒を殺してしまう。
 で、その殺人事件の担当になった新米弁護士ジムが、殺しは認めつつも「刑務所の長期に渡る独房監禁のせいで殺人をやっちまったんだ。」ってな論を展開しつつ、頑なヘンリーや権力と闘っていく。(法律的にどういう理屈で闘っていたのかはよく分からんかった)

 これで一応ノンフィクションらしい。映画ではこの事件をきっかけに刑務所が閉鎖されるという流れを作っているが、Wikiを見ると閉鎖は「財政的な理由」と書かれているがどうなのかね。この映画の事件は1940年前後の話で閉鎖は1963年だそうで。

 さっそくオチを書いてしまいますが、
(ネタバレ注意)
(ネタバレ注意)
(ネタバレ注意)
(ネタバレ注意)
(ネタバレ注意)
(ネタバレ注意)6行明ければいいっしょ。
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映画『ビーイング・ボーン』Abby Epstein

公開サイト⇒「松嶋×町山 未公開映画祭> ビーイング・ボーン~驚異のアメリカ出産ビジネス~
2008 / アメリカ / 87min
【原題】 The Business of Being Born
【監督】 Abby Epstein
【製作スタッフ】
Abby Epstein
Paulo Netto
Amy Slotnick

 この映画の説明には「アメリカの病院や医療保険のビジネス化によるゆがんだ医療の現状を追う。」みたいな事が書いてあるけど、本質はアメリカにおける出産に関わる医療を批判する映画かな。妊婦が監督となり映画を作っていく。
・日本や欧州では助産師が関わるお産が70%以上。アメリカでは8%未満
・アメリカでは3人に1人は帝王切開
・帝王切開が多いのはは病院の効率化の一環
・自然分娩は結構安全
・自然分娩をするときに出るホルモンが母性本能を興す
 こんな事が耳に付いた(ちなみに書いている私も、これらが全て本当だとは信じていない。)
 アメリカの病院には助産師がいないことから、助産師を助けを経て自然分娩をするためには、自宅分娩を取る流れになるようだ。
 逆に日本では助産師外来なんてものもあるんですね。グーグル先生の雰囲気を見ると出産できる病院のほとんどに助産師さんはいるような?

 見ながら思い出していたのは、昨年の24時間テレビでの事。
無介助分娩の危険性などについても含めて⇒2010-08-25 24時間テレビの暴走を考える/新小児科医のつぶやき
 助産師の介助も受けずに出産する画を24時間テレビで放映する予定であることを、たまたま取材を受けた方がmixiに書いた事で発覚。ブログやTwitter上で大きな声となっていました。色々な方が動かれたのでしょう、24時間テレビでは問題のない形に修正されて放映されたようです。

 映画を見ていて怖かったのは出産に関する医療の歴史。
1930年代にはレントゲンで骨盤を計測し、幼児がガンになることが分かり40年代になって使用を止める。
1950年代には不眠症の薬や、つわりの緩和剤としてサリドマイドが使用され、ご存じの通りの事態となり使用を止める。
1960年代にはスコポラミンという鎮静作用と記憶喪失の作用がある薬が使われ出産自体を記憶から消してしまおうと言う時代があったとか。
 もちろんこれらは終わったことなので今から畏れることはないのだけど。この映画は自分たちの主張を強くするあまり、過度な恐怖を煽っているところがあってその点はあまり評価できない。人間は危険を過大に評価する傾向があるわけで。

 この映画にはモザイク無しで出産の映像もあったりする。こういう映像を見ると本当に男の無力さってのを感じるねえ。

映画『収容所のラブレター』Michèle Ohayon

公開サイト⇒「松嶋×町山 未公開映画祭>収容所のラブレター
紹介動画あるよー↑
2007 / アメリカ / 94min
【原題】 Steal A Pencil For Me
【監督】 Michèle Ohayon
【製作スタッフ】
Ted Sarandos(executive producer)
Theo van de Sande(producer)

 未公開映画祭の映画には、ホロコーストモノが結構あるのですが、これは強制収容所での恋愛を描いた作品。
 オランダから11万人が強制収容所に送られ、生存は6000千人に満たないとか。その中で、ヤーブという男性。その妻マーニャ。ヤーブの愛人イナ。この3人は生還。実に三角関係の話です!

 彼らが最終的に収容されたのはベルゲン・ベルゼン強制収容所といい、アンネフランクもいたという。9割はアウシュビッツへ、1割がそれ以外の収容所へ送られていたらしく、このヤーブとイナが同じ収容所に送られたこと自体がとても低い可能性だったようで。もちろん同じ収容所だからといって、逢い引きできるわけでは勿論無く、こっそり手紙のやりとりをしていたようです。
 この収容所は元々ユダヤ人用に作られたモノではなかったらしく、ガス室が無かったらしい。そのため、「病死」と「餓死」により人を殺す方針だったとか。その状態で生き延びたのは間違いなく意思の力なわけで。

 いやはや。真面目に恋愛パワーって凄いねえ。
 このご夫妻結婚60年経過し、子ども3人孫5人ひ孫2人いるって書いてあったかな。

 自分のための取っているパンを、色んな人が求めに来る。
 自分の弟が重病になって「パンをくれ」と言われて断る。断った理由は、弟はもう手遅れだと思ったから。そして弟は死ぬ。
 友人の息子が同じく重病になって友人から「パンをくれ」と言われて、これも断る。これは自分のため。この友人とその息子は生き延び、1年間絶縁状態であったが、それでも解放されてから許るしてもらえたといって、ヤーブさんは泣いていた。

 たった半世紀とちょっと前の話。

的狙う 赤き心の白きこと

 愛知では今日が初雪ですかね。
 試験要項に「雪降ります」と書いておいても良いレベルですな

 ラジオで聞いたのかな
「プロってのはどういう人か?」
「アクシデントが起きた時にキチンと対応できる人」
試験日の雪もアクシデントの一つであって。雪に対して対策をしていないとしても、試験に対してキチンと準備してきた人はそれなりに落ち着いて試験も受けられることでしょう。
 これは神様からの一寸した気遣いかもしれませんな。

 私がセンター試験受けたのはもう9年前くらいか?
 センター試験を受けた頃はほんと何も考えていなかったなあ。
 当時の自分に一番好きな本を聞けば「金持ち父さん貧乏父さん」と答えただろう。なりたいものを聞けば「社長になって金持ちになることかなあ」と言っていただろう。確か試験の一ヶ月くらい前に、投資すべき株を調べて購入していたような気がする。確か「新日鐵」買って失敗したんじゃなかったか。
 その頃はなりたい自分が見つかっていなかったので、テレビや親や世間が言う「すごい人」というのを漠然と目指していた。せめて「女にもてたい!」とでも思っていればまだ救いようがあったのに…。
 大学前半はそのノリのまま自己啓発書を読み、自分の名刺を作り、社会人の名刺を集め、勉強会を開いたりし、なんかよくわかん「すごい人」目指して頑張っていた気がする。それなりに意味はあったと思うけど、でもキモかったなあ。今その頃の自分にあったら絶対に連絡先交換しない。
 まあでもそれは今は昔。大した人間になってはないけど(それこそ当時の自分からは冷たい目で見られそうだけど)それなりに誇り持っては生きているっちゃよ。

 ところでこの一週間、なんかあっちゃこっちゃで色んな人の話を聞いた。貧乏のどん底にいるような人、金が余って仕方ないような人、他人に認められたくてたまらない人、命の危険を冒しつつ1人雪山に登る人、人間活動に入った宇多田ヒカル、モテ期が到来した人、結婚間近な人等々。
 色んな人生があって、どれも大変そうで、どれも楽しそうで。宇多田ヒカルが色んな人の人生と関わり合いたいという願望をNHKで語っていたけど、めちゃんこ共感できる。もっといろんな人生を見させて貰って、自分の可能性を広げてみたいもんですな。
 ちなみに、こんな事書きながら、ホロコーストのドキュメンタリー見ていたりして、自由もなく殺されてしまった人に対して申し訳ない気分になってみたり。日本に感謝。

 今はセンター試験を受けていた頃のように、金持ちになりたいとも思わないし、名誉も欲しくない。
 その代わり、いつも笑っている知的好奇心溢れる素敵おじさまになりたい。勿論奥さんもほしい。できれば「本が邪魔だ!売ってこい!」と言わない奥さんが良い。収入は本を躊躇せずに買うことができて、奥さん、いれば子どもが苦労しない程度の収入が欲しい(これが結構大変だと思うけど)

 なんだこのエントリー。
 まあ、たまにはええか。
 いや、いっつもこんなんか。
 いやね、今日雪の中買い物に行きがてら俳句とか考えていて、思いついたからどうしてもこれをタイトルにエントリー書きたかったんですよ。許せ!誰に許しを求めているのか?あえて言うなら将来の自分か。恥ずかしいぞ俺!

本『児童の世紀』エレン・ケイ

 エレン・ケイ。何回かエレン・ケラーと言ってしまい「それってヘレン・ケラーじゃねーの?」と返されたりしながら、年をまたいでぼちぼち読んでおりました。エレン・ケイは1849年産まれ(スウェーデン)。ヘレン・ケラーは1880年産まれ(アメリカ)。ちょっとは絡んだことがあるかもね。

1900年刊行の著書「児童の世紀」で、20世紀こそは児童の世紀として子どもが幸せに育つことのできる平和な社会を築くべき時代であると主張した。「児童の世紀」は各国語に翻訳されて世界的な注目を集め、教育における児童中心主義運動の一つの発端をつくった。
引用:エレン・ケイJinkawiki

 教育なんて勉強したことがないからだろうけど、かなり新しい視点を取り入れることができた。
 特に「児童のための社会」と言う視点で社会を眺めるとこうなるのか。という事に中なか驚かされながら。これを、児童中心主義というらしい。どちらかというと今の教育は「社会のための児童」と言う視点から語られることが多いような気がする。
 ちなみに、日本のゆとり教育についても一見「児童の世紀」を汲んでいるかなと思いながら読んでいたけど、そういやこんなこと聞いたことあったなと。ゆとり教育をまとめた教育課程審議会会長の三浦朱門氏について

2000年7月、ジャーナリストの斎藤貴男に、新自由主義的な発想から「ゆとり教育」の本旨は“100人に2~3人でもいい、必ずいる筈”のエリートを見つけ伸ばすための「選民教育」であることを明言
引用:三浦朱門/wiki

(ソースがwikiで情けない)
 結局日本の「ゆとり教育」は選民教育だと。まあでも、こういう思想を日本人は実は受け入れているよね。日本人の皆さんが政治や宗教について語るのはタブーと思っているのがその典型だと思う。友人諸氏に政治話を振って苦笑いされるのは結構凹みます。
 また、政治の非難はしつつ改善案は出せない、やれるとも思ってない。それじゃあ、エリートの皆さんの思うつぼですよ…。みんな語らおうぜ政治や社会の事!頭の中で理想を思い浮かべだってそんなの価値がないぜ!
 おっと脱線。

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2011年の抱負とか

 新年いきなり聖書ネタとかですんませんなあ。
 この辺りは今年も相変わらず、人目を気にせず突き進んでいきやす。

 ところで、抱負という言葉。一見分かりにくい言葉で、グーグル先生に聞いてもいまいちピンとくる答えを教えてくれませんでした。それでも、自分なりに解釈してみると、

」という言葉は物理的なだけでなく心理的なニュアンスもある。「心で抱く」なんて中々渋い表現じゃあありませんか。「昨日君を心の中で抱いてみたんだ!」よくわからんけど、変態な感じですね。

」は、「責任を負う」のように、背負い込んだりするイメージ。負けるっての考えてみれば勝負に負けて全てを負うわけですよな。ふむふむ。

 ということで、抱負ってのは「心の中で背負い込むモノ」ってな解釈なのかなと勝手自己解釈(反論歓迎)。あんまり楽しいモノではなく、今年一年自分に課す目標という感じなんだろうなと。

 さてはて、それを踏まえて今年の抱負。
「謙虚緩速(けんきょゆるそく)」
とでもしませう。
 税理士試験の合格もあり、今年は色々と偉そうな気分になったり、なんもしなくても焦って急いでいそうなので、こんな感じで。実はおみくじも、「謙虚になれ」と書いてあり、結果も吉だったり(昨年は大吉)。
 偉そうにやって、成功すればまあそれはいいのだけど、失敗した時には、付いてきてくれた人は皆迷惑だし、自分自身も完全に信頼を失うし。失敗は絶対にするわけで、偉そうにするのはやっぱし良くないですよ。実際にそーいう姿を幼い頃に色々見てしまったので、それだけは気を付けたいなと思うわけです。

 個別具体的には
・TOEIC頑張る(さっそく今日申し込んだYO!)
・知識の土台を作る(勉強仲間、師匠なんかを作る事を含めて)
・恋人を(略)
のへんがメインかなあと。ただ、この辺はしょっちゅう変わるからねえ。
 個人的に、なんか活動起こしたいなあってのもあるけど、まあこれは思いついたらやっちゃうだろうから、抱負とかにするまでもなく。どちらさんか、運営レベルでも巻き込みたいっていうご依頼があれば承ります♪(ビジネス系なら特に大歓迎)
 ただし「そもそも・・・」攻撃で、組織を壊すのでご注意を(ダメじゃん)

 あと、皆様にお願いしたいことが一つ。今後は気になった都度「偉そうじゃない?」と言って頂けると助かります(同時に凹みます。逆ギレはしないように気を付けます!)。貫禄はまだ当分いらないので、謙って(へりくだって)生きていきたいのであります。裸の王様怖いよう。
 会っていきなりテンション下がって困る場合は、帰りがけにご使用下さい。

 さー今年も頑張りましょうかね。

『旧約聖書』God~サムエル記~

の前に。
 ハゲタカの映画を見た感想、金の絡む映画はワクワクするね(笑)
 しっかし鷲津さんサブプライムローン問題を戦略に組み込むなんて派手頭良すぎ。ちょっと無理があるけど。

 (注:私はキリスト教徒でもなく、興味本位で聖書を読んでいるだけなので、以下の内容に正確さは全くございませぬ故、ご了承下さい。)

参考元
サムエル記 – 聖書を読んでみよう
サムエル記におけるサウルとダビデ

 サムエル記の主人公は、サムエルと、イスラエルの初代王サウル、2代目ダビデの3人。
 旧約聖書では、モーセとヨシュアが神の言葉を伝える指導者として指導し、約束の地「カナン(イスラエル)」に導いた。その後は、指導者はおらず、士師という臨時指導者を雇い、場を凌いできた。
 で、このサムエル記になって、外国との武力衝突が激しくなるに従い、ようやく王政が敷かれることとなる
 最初サムエルは、サウルに王を任せるが、戦争とかをばたばたやる中で、神やその代理のサムエルの言うことを聞かなかったのでクビ。その代わりとして、神の声に従いダビデ王を任命。ダビデは教科書にチンコ丸出し(ミケランジェロ作)で載せられているあの人です。

 と、この話の中でダビデがゴリアテを倒す有名な話が出てきます。(サムエル記上17章)
 ペリシテ軍とサウル王率いるイスラエル軍の戦の時、ペリシテ軍からはゴリアテという大層でっかいおっさんが一騎打ちを申し出てきます。それにビビリまくりのイスラエル軍。そんなところに、おとんのお使いにやってきたダビデ。
「おらぁ羊飼いの仕事柄、獅子や熊ともよく戦うんだべ。だで、あのおっさんもさくっとやっつけられるわさ。神ついとるし」(三村意訳)
ってなことで、一騎打ちにエントリー。
 で、さくさく前にでていって、ヒモで石を飛ばして、ゴリアテの額にヒット!一発KO
 てな事がダビデVSゴリアテのお話。
 若干一寸法師のほうが勇ましいと思ったのは秘密です。

 とまあそんなこんなで、ダビデはサウルの嫉妬をかいつつも、最終的には誰もを納得させ王へとなっていきます。
 王となったダビデについても、色々苦難が襲いかかります。その中でも、度級なのがダビデの息子アブロサムを取り囲む話。

 アブロサムはダビデの子。ある日、アブロサムの愛妹タマルちゃんが兄貴のアムノンに強姦される。しかも、風邪を装って看病しに来てくれたところを!最低!しかし、それがばれてもアムノンはおとがめなし。これにキレたアブロサムは、2年後羊狩りにアムノンを誘い、その道すがらぶっ殺してしまう。そしてアブロサムは逃亡。
 やがてアブロサムは一度はダビデと和解したりするも、最終的にはダビデを倒そうとするようになる。ついに、ダビデ軍VSアブロサム軍となり、ダビデが「アブロサムは生かしておけ」と言うも、部下が殺してしまう。
 そして、息子死んでダビデ号泣。そんな話があったり。なんか誰も救われない話ですよな・・・。

 とまあ、結構ダビデメインの章なのですが、サムエル記という名前を冠しているのは

サムエル記は「サムエルと、サムエルをとおしてヤハウェが王位を与えた王たちの時代の物語」なのです。
もし有名なダビデ王の名を冠して「ダビデ記」だったら、英雄物語とか建国譚ということになったかもしれませんが、そうではないということです。便宜的に「3人の主人公」と言いましたが、真の主人公はヤハウェであって、ヤハウェとイスラエルを仲介したサムエルの名をこの記録に冠した、とも言えます。
サムエル記 – 聖書を読んでみよう

という理由らしいです。

2010年の自分を振替ってみるのコーナー(あけおめ)

 あけましておめでとうございますm(__)m
 ふつつつかものですが、本年もよろしくお願い致します。

 税理士試験のことでもまとめるかと思っていたらいつの間にか、新年明けてしまいました。
 ちょいと、昨年を振り返ってみます。(ほんとは年末にかいてるよん)

Twitter

 私にとって昨年の一番のキーワードはTwitterだったりするかもしれませぬ。

ブログとTwitter投稿数


1人寂しく寝られない夜にはTwitter!
クリスマスの夜も、明石家サンタを見ながらTwitter!!
僕はいつでもTwitter!!!
というほどではありませんが、Twitterにはまった一年でありました。
 Twitterが面白いのは、結構な知識人(税関係の先生方)や芸能人(宇多田ヒカルですな)が参加していることがとてもでかい。ブログや普通のニュースサイトはある程度、完成された文章を掲載することになるため、不完全なネタは普通載せない。しかし、最新の情報や重要なポイントは不完全なネタレベルだったりするわけで。それを聞くことができるTwitterというのは、かなり情報収集に役に立つ。
 それは、税務情報や宇多田情報はもちろん、女性の普段聞けないようなちょっとした愚痴なんかも聞けちゃうわけです(嬉しいかどうかはともかくとして)。しかも、コアな話題であればあるほど、知識人と会話に発展しやすいです(誰でも興味のある話題だと、なかなか下々のものとしては会話しにくいですが)。

 さらに、アウトプット側としてはTwitterはブログとちがって一度に140字しか書き込めないので、文章に凝りようがなく、強制的に気楽に文章を書くことになります。Twitterは気軽なのででアウトプットし始めると、ブログの役割が相対的に落ちてしまう。私の場合ざくっとみて、ブログ1記事が80つぶやきに変換されている感じですな。
 今ではきちんと完成された文章まで持っていくことの重要さを十分感じるので、ブログに再び想いが戻ってきている感じです。やっと両立してきたかなという。来年は、またブログが増えていくんじゃないかな。

これからの「正義」の話をしよう

 昨年は完全に文系に目覚めた一年でもありました。面白いのよねえ、経済学とか哲学とか思想とか宗教とか。
 一番きっかけになったのは『これからの「正義」の話をしよう/Michael J. Sandel』でした。この本を読むまで、ベンサムだの、カントだの、ロールズだの、アリストテレスだの全く知らず。本当に名前しか知らないじょうたいでして・・・。
 この本を読んでからと言うもの、経済や法律や思想といったもののベースとなっているものがやっと見えてきたという感じで、違和感なく読める本が一気に増えました。で、今年はマルクスだとか、ケインズだとか、聖書だとか、基本中の基本であろう本を読みあさり始めています。(これを友人に話と、つまらん男だなあという目で見られるのよ。文系差別を撤廃すべしw)
 昔は、こういった文系の学問は生産性がなく無駄だなあと思っていましたが、理系が生みだす道具よりも強く直接的に人に影響を与える物であり、幸福に直結する物なんだなあとびっくらする日々です。
 

税理士試験の合格

(実はまだ、合格証が届いておらず「やっぱ不合格」とかいう事が0.5%くらいありえるのですが。その場合は何も言わず雲隠れして勉強していると思います。そっとしておいてください。餌は与えないでください。)
 昔から主賓になるのは嫌いで「お祝い」からはずっと逃げてきました。が、今回はちょいと趣向を変えて、自分からしっかり広報してみました。
 税理士になりたいと思ったのは、一番ストレートな理由は周りの役に立てるなと思ったからです。理系大学なので、税理士になろうって人も少なかったし、会計士と医者と弁護士は知り合いに持っておけといいますからね。なのに、私が税理士になっても、それを知られていないのでは意味を成しませぬからねと今回は厚かましくも、色んな方に報告させて頂きました。是非、今後はガンガンこの男を利用してやってください。

 祝われながらずーっと感じたことは「緊張するな」ってことでした。
 人に期待されると緊張するんですね。
 ところで少し話が変わりますが、昔から「責任」の定義をずっと悩んでいました。わからないなりにも、大学でサークルやる時には名刺に「総責任者」としたのは良い思い出です。自分で総責任者と言うと緊張するもんです。
 今回、おぼろげながら気付いたことは「責任」=「期待」なんやなと。これから、ガンガン勉強して、期待に添えるようにならなきゃいけないわけです。「どんな仕事がしたいか。」と聞かれて、答えはなくもないですが、正直なところ期待に添えるようになることがまずは当面の課題かなと思っています。
 ひとまず試験勉強は終わりましたが、本当に重要な勉強をこれから始めるわけです。

 あと、恥ずかしながら、「友人ってええなー(恩師込み)」ってこと思いまして。いや、ほんとこんなことをこの年にして思うのもどうかと思いますが。うーんなんていうんだろう。結構マジで祝って貰ったりして。ほんと自分のために税理士試験受けてただけなのに、色んな人が心配してくれていて。
 ありがとうm(__)m恩は絶対返すからな!覚えてろよ!

宇多田光

 宇多田の項目は最後。また書きたいし。
 今年1月終わりから2月にかけて初めて海外に行きました。それはUtadaのライブのため。
⇒ Utada in Chicago “Utada In the Flesh 2010″ part 1
⇒ in Chicago part 2
 私は、宇多田は好きだけどそれ以上に、彼女の行動から新たな世界を手に入れる口実でもあったりします。
 今回は「Utadaのライブを見たい!」という事を口実にシカゴまで行ってきたわけです。もちろんUtadaライブが最高にすばらしいもので言うまでもない!

1967年8月15日公開⇒シカゴ・ピカソ

 当時の日記では、私は現地の人に注目しているようですが、「建築物」と「シカゴ美術館」もよかった。
 日本で高層建物が凄いと言っても、普通単発だと思うわけです。それは、ほとんど施主は利潤などを最優先にして、建築しているんだろうなあと思わされるところです。
 しかし、シカゴとの高層建築は隣のビルとデザイン勝負をしかけているわけです。使いにくいフロア構造になっている高層ビルの多いこと。なんというか、町が好きなんだなっていう感じです。さくっとピカソのオブジェがあったりするし。
 シカゴは米国でも最大の「人種のるつぼ」らしいのですが、そのぶん「地域」にアイデンティティを求めるのかなと言う気がしました。

 もう一つの「シカゴ美術館」これもよかった。
 冬のシカゴってのは、冬の北海道にいくようなもんで、くっそ寒い。しかも雪祭りとかあるわけじゃないので、観光客は殆どいない。
 なので、本来シカゴで長蛇の列ができるようなところも、人は数人のところばかりで、ゆっくり滞在し静かな時間を過ごせる。シカゴ美術館も例外ではなく、びっくらするくらい有名な絵も誰も見ておらず、1人占め。
 全く絵に詳しくないのでヤボな事は避けますが、ゴッホの自画像とか、近くで見ると肌の色一つのために色んな色を使っているんです。油絵だから、そうなんだろうけど。そこに緑かよ!遠くから見るとめちゃ完璧じゃん!みたいな、頭の中どうなってんだろうとしみじみおもったり。
 あとはモネの睡蓮。色々な睡蓮があって並べてあるんだけど、寂しいっすよね睡蓮って。そして何よりもモネ先生は水も書きたかったんだろうなあと。でもさ、色んな絵を描いて最後にたどり着くところが睡蓮って、なんか寂しくないですが?ゆっくりそんなことを考える、本当に言い一日を過ごしました。
 あそこは何日でもいられる。(1日いたけど、全部見ることさえできてない)

 聖書読んだり、米国の歴史勉強してから冬のシカゴにもう一回行きたい。

 まあ他にも色々あったっちゃあったけど。ブログに書ける話と書けない話があるよね(笑)
 何はともかく。今年もよろしくお願い致しますm(__)m