前回読んだ『深い河』は1993年の作品、今回読んだ『沈黙』は1966年の作品だそうで。
ネタバレ上等。
島原の乱の後、カトリック弾圧の治まらない日本。そこへ手助けにポルトガルからロドリゴ神父が訪れる。しかしドンドン周りの信者が捕まっていき拷問され、神父はそれを無力に目の当たりにさせられ、何もせず沈黙したままのキリストに対しての心が揺らいでいく・・・。
つらいよー。ごっつつらいよー。
やっぱりカトリックは良く出来ているなと
日本人の百姓たちは私を通して何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てるひとすじの路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等を牛のように扱う者たちの味方でした。長い間、彼等はこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。(P53)
引用したことで仏教を批判したいわけではありませんです。ただ、この神父は信者の懺悔を日々聞いたり、洗礼を与えたり、非常に信者と距離が近いなと感じたわけです。
良くも悪くも、人はそれにすがりたくなるだろうし、弱者のための宗教としては非常に効果絶大なのだろうなと。そして実際に、厳しい年貢の取立てに苦しむ当時の百姓も頼っていったのだと。
でもって、為政者が弱者が集うこの宗教を弾圧したくなるのもまあ、わかりますわな。
ところでこの小説はキチジローという、コミカルで卑怯な弱虫が非常にいい味を出しているわけで。キチジローは脅されるとあっさり踏絵を踏むし、神父を幕府に告げ口して自分だけ助かろうとする。それでも信徒で、最後まで神父に懺悔させてくれと、懇願する。
一方、踏み絵も踏まず神を信じ続けた人たちは、拷問など似合い殉教していく。さー、沈黙を貫く神が悪いのか、キチジローが悪いのか。
結果的には、遠藤周作の小説の中の神は、他の信者の苦しみを救うため、まさに踏絵を踏もうとしている神父に向かって声をかける。
踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前達に踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。(P219)
遠藤周作の神はやっぱり日本人の神なんだろうか。wikiなんかによれば、この結末のせいでノーベル文学賞をとり損ねたとか。次の言葉がなんとなくずっしり来るのです。
「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。」(P192)
なんつーのか、この小説に描かれるカトリックは、どうしても行き場を失った人たちが寄り添う宗教として扱われているわけです。そこの神の概念をもてないというのは、「貧乏は努力不足」という議論と近いようなものを感じないでもないというか。勤勉というか、頭が固いというか。
そう、キチジローの居場所はどこなんだろうねと。
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