※追記:いつまでも自粛していればいいなんて勿論思っておりませんし、「自粛は良いことだから、もっと自粛しようぜ!」とか言うことが言いたいわけではなく、自粛したい人はすればいいしそれは周りも尊重できればいいなあと。自粛すべきでないと思う人は、もちろんそれでいいのだ。と言うことが言いたいだけであります。
自分の座っているところはゆれていないのに、余震の情報などを見ると、必要もなく申し訳ない気持ちになります。神も仏もないのか。いるのはトイレの神様だけか!?
日本国憲法
第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
自粛騒動で思うことがちらほらあるので、思うままに書き殴ってみる。バシバシ
東京都>知事の部屋>東北地方太平洋沖地震・東京都知事発言
(前略)
なお、上野公園で、花見・宴会を規制しています。花を愛する日本人、桜が好きな日本人が、花見をしたいというのは分かるけれども、私は少なくとも夜間、明かりをつけての花見などというのは自粛すべきだと思っております。
マスコミの報じ方は例のごとくよく知りませんが、Twitterでは随分石原さんは叩かれていました。でも、原文を読めば大した事言ってない事がよくわかります。天罰発言も前後を聞けばそんな怒るようなことでもないと個人的には思っていたりします。
ところで、それ以前から「自粛すべきだ」という意見と、「自粛すると経済が縮む!自粛反対!」みたいな意見の対立をTwitterなどでちらほら見かけました。
少し根深い問題なあと思って眺めていました。「自粛したい」というのは感情。「自粛すると経済が縮む!」というのは理性。感情と理性で議論しても結論は出ませんね。それでも、お互いがお互いを説得しようとしている。外から見ればもどかしいもんです。
ところで「自粛したい」という感情はどっから来るのか。そんなことをうだうだ考えていました。
自己防衛や目立つのを避けるためだとか、なんやかんや考えてみましたが、「相手に感情を合わせる」と言うところが一番しっくり来るように思います。
相手が笑っていれば一緒に笑う(実際笑っている人を見ると、顔の筋肉が勝手に笑う体制に入るそうですな)。誰かが悲しんでいれば一緒に悲しむ。普段、人間はこんなふうに他人と心を近づけようとする。コミュニティを強固にしようとする。
その延長線上に「自粛」はあるのかなと考えたわけです。
今恋人が避難所にいる人がいて、そのカップルが再開を果たした時に、
「キミが避難所にいる間、僕も悲しかったよ」と、
「キミが避難所にいる間、僕は普通に生活していたよ」というのでは、
前者の方が二人の愛は深まるような気がするわけです。
何が言いたいかって、「自粛したい」と言う気持ちは、被災した人たちと心を一つにしようと言う大変尊い気持ちだと思うわけです。それを、経済がなんだとか言う理由で説得しようと言う考えは悲しい。
どうしても感情面は、数値化したり効果として実感しにくいので、ないがしろにされがちですが、「なぜ人は自粛をするのか」と言うところを、考えてみてもいいのかなと思うわけです。
次に「自粛すると経済が縮む!」という意見について。
これも正しい意見だと思います。実際に金が使われなければ金が回らなくなって、雇用が失われたり、税収が減ったりして、国全体が疲弊し、もちろん復興に影を落とすことにもなろうと思います。税理士とかいう仕事をしていると、この言葉の大事さは極めてよく分かります。
飲食店で100円使えば、20円が飲食店店主、20円が従業員、20円が仕入先、20円が農家、20円が税金として国に行く。と、色んな所にお金が流れていくわけです。そしてそれぞれがお金を使うことで又回っていく。
まあでも、ちらっと違うことも考えたりしていて、経済を良くする目的は「金を回すこと」で「消費すること」は金を回す手段の一つに過ぎないとも言えるわけです。金を回すためにはそのまま現ナマを差し出してもいいわけです。
さっきの例で行くなら20円を飲食店店主へ寄附、20円を飲食店従業員へ寄附、20円が飲食店の仕入先へ寄附、あとの40円でスーパーで食材を買ってご飯を食べる。、現物を渡したって同じなわけです。むしろそっちの方がもらった側は嬉しいし、経済にはよりよいわけです。飲食店の店主と従業員は 働かずして金が貰えるんだからその時間で子どもを育てる時間に回したりできるわけだ。
もしこれを実現可能なレベルに落とせば、多少静かに生活して、普段遊ぶ部分は被災者に回せば。自粛と経済を回すという行為が同時にできる。そーいう手段もあるかな。と思わなくもない。
ところで、元々私の場合「消費をする=良きこと」という等式をどうにか壊したいと言う考えが常に根底にあるわけで。。。
ちょいと話はずれますが、今回「消費すること」の弊害が、原子力発電というシステムを通して思いっきり顕在化してしまったと大げさに思っていたりします。
例えば、数ヶ月毎に新しい機種が発売される携帯電話。これは「消費させるため」以外の何者でありましょう。この携帯電話のために工場が動き、電力を食う、そしてその電力を賄うためにリスクのある原子力発電所が建てられる。「経済が回る」と言う点を外せば携帯の新機種なんて今の100分の1くらいの数で十分なはず。
これもさっきの飲食店の例と同じで、もし新しい機種が発売されず、購入するはずだった人から、その携帯電話相当額が、消費されたかのように、携帯電話会社の役員から原発労働者までに配分されれば、電気も原材料もいらず経済が回るわけです。そしてお父さんは早く家に帰って子どもの世話と過ごす時間もできると。
そもそも日本で「消費すること」を望んでいる人は減ってしまったように思います。少なくとも私の周りは「普通の生活ができればいい」と言う人も多いわけで。経済を回す必要はある。しかし「消費」という手段ではどっかにしわ寄せが来る。どーにか別の手段を見いださないといけない時期に来ているように思います。「しょうがないから原発」こんな言葉を聞く度、腹立たしい感情でいっぱいになります。
自粛しても回る経済。必要ない物を作らなくてもよい経済。そんなのはくだらない実現不可能な理想なのでしょうかね。
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