平山郁夫
1930年6月15日広島に誕生。
1945年8月6日原爆で被災。
1959年原爆後遺症(白血球減少)
このあたりの自身の経験が、かの玄奘三蔵(三蔵法師)に重なるところが多いことに気づき、玄奘三蔵を調べるほどにどっぷりはまっていく。というのが平山氏の基軸のようだ。
アジアのシルクロードをめぐり、それぞれの場所でスケッチをし、絵に収めていく。調べてみると50年で60回近くシルクロードの旅に出ている。
それぞれ、地で現地の女性の絵を描いたり、ただの岩の風景があったり、とにかく片っ端から描いていったんじゃないか平山氏。愛を感じるのは、タリバンに破壊されたアフガニスタンの遺跡を1年以内にスケッチに行っていたりすること。この時代は自分の記憶にも新しく、妙に生々しかった。同じ時代に生きている画家の作品というのはまた全く意味が変わってみるものかもしれない。
ピースをしていた石造(?)のスケッチが何だったのかは謎である。
ところで平山氏はWikipediaを見ると、どうも外国で評価をされていないようだ。平山氏の絵はすごくわかりやすく、見たものを見たまま描いているように思う。美術館で思わず目に留まったのは旅先で書き溜めたスケッチブックの展示。これを見て漏れでた感想は「見た風景を絵に落とせると、さぞよいだろうなあ」。
写真で撮ったものよりも、絵で書いた方が、見たものの再現性に優れている。もちろん絵の技術を前提として(優れた写真屋を否定するわけじゃないけど、やっぱり絵が優れていると思う)。
絵を色々見ているわけでもなく、教育を受けたわけでもないのに、勝手に語るけど、モネの絵を見たときモネの主張というか感情がドサドサ入ってくるようで辛かった経験がある。でも、平山氏のものは「あーこうやって見えるんだろうなあ」と思わせる絵だった。外国では意見が感じられないと絵にも意味がないのだろうか。
たまたま美術館内の書籍で見つけたのだけど、「広島生変図/1979年/広島県立美術館」という絵があって(広島にあるらしい)、この絵の中には不動明王が描かれている。原爆から30年以上。やっとその時に見たものを描けるようになったのかなと。これは現物を見に行きたい。
この美術館に訪れた日、盆地一面を覆う桃の花を見た。この桃が美しいのは生活の中で咲いている桃だからだ。人の営みは美しい。
桜が舞い散る恵林寺にも行った。鳥がばさばさ音を立て、庭の水が流れる音が響く。池は桜の花びらで覆いつくされ、波紋が美しい。その脇では鴨が1歳児のごとく飯にがっついている。訪れたわれわれも一歳児の視点で寺を眺めた。
いくつかカメラに残しては見たけど、この風景は平山氏を呼んで描いてもらうしかない。でも、富士が絶えずこっちを見ている気配まではさすがに平山先生でも描けないかな。
同じたびでよっぱらったおっちゃんの日本悲観論を聞いたり。うめー弁当食ったり。小学校の廃校で少々遊んだ。日本書紀の話も聞かせてもらった。まー色んなことを考え、色んな話をした。
ふと思うのは、画家という職業はその一面を切り取る仕事。逆に言えば、絵を見てもやっぱり一面しか伝わらない。そう思うと辛い職業だなあ。それに、人間はそんだけすごい量の処理をしているんだということでもあるわけで。あー途方もない一日をすごしているんだなあ。
この文章を書き終え、この旅の始まりから丁度24時間くらいになる。
以上。言葉が1/3でも伝わっていてくれていれば嬉しいわけでして。そしてこれからも、少しずつ言葉を吐き出すので、少しだけでも受け入れてもらえるならこれに越した幸せはございません。また、是非貴君の意見を聞かせていただきたいと思っておるところです。今後ともよろしくおねげえいたします。
さてさて愛知に帰ります。
山梨のマンガ喫茶にて旅の余韻にふけりながら
自己陶酔型の恥ずかしい文章を書くの巻
4/17 AM6:00
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