まずもって知的レベルがばれるような事を書きますが、27にして図書館のすばらしさが分かりました(アホ)。
当然絶版になっているであろう本、需要が偏りすぎているような本、単価数万円するような本があるある。その魅力的な本の多いこと多いこと。宝のやまじゃねーか。しっかり利用して、金が貯まったら寄附しよう。
ということで、資本主義の本を読んでいて言及されていた井原西鶴たん。気になったので、図書館でちまちま本を読んでみていました。
この井原西鶴と名乗るおっさん。1642年裕福な商屋の家に生まれる。本名は平山藤五。1693年8月10日に亡くなる。あとで出てくる芭蕉もそうだけど、人生50年ってこの時代ほんとそうなんだね。
最初は家業を頑張っていたようで、あまり文献で確認できないらしい。初めに西鶴たんの作品が現れるのは25才で3つの俳句。
餝縄(かざりなわ)や 内外二重 御代の松
心爰(ここ)に なきかなかぬか 郭公(ほととぎす)
彦星や げにも今夜は 七ひかり
『遠近集』
この時は鶴永(かくえい)と名乗っていたそうな。江本さんによると、「他愛ないというか、単純というべきか、そんなにいい句ではありませんよね。」と一蹴。その程度の句だそうです。
この調子で当面泣かず飛ばず。どうにか32才で西鶴と名乗り初め、大句集を発表したりして、ようやくノリはじめる。西鶴たんは俳句を詠むと言うよりは、句集を手がけるなどプロデュースが上手だったよう。
さあさあ、俳句事業が軌道に乗り始めるもそこから2年、なんと西鶴と3人の子供を遺し、奥さんが亡くなる。このころ乳飲み子もいたようで、西鶴たんの後の作品には、子供が泣くたびにパパが乳飲み子を持つお母さんを捜しておっぱいを分けてもらう。なんていう話もあるとか。
丁度この1670年代「軽口」がブームで、情緒ある俳句みたいなものは求められておらず、タイムリーなネタ的な句が求められていた。そこに頭の回転が速い西鶴は上手くのっかりガンガン売れ始めた。時に西鶴たんは「矢数俳諧」というものを生みだした。一昼夜で1800句読むとか、短時間で量を生みだすというスタイルを打ち出し、張り合ってくるライバル(月松軒紀子、大淀三千風)も出てきたりで、勝負し盛り上げていたそうな。(完全に芸人?)
同時期にに活躍していたのが、かの松尾芭蕉(1644-1694)。西鶴はブームにはノルも、蕉風などを築き上げ文学としての評価を築いていく芭蕉に対して、西鶴の俳句は「阿蘭陀(おらんだ)流」(変なものの俗称)等と軽蔑されておったらしい。芭蕉の評価が上がるなか、西鶴は最終的に詠む数を増やし43才で一昼夜に2万3500句詠んでみたりして対抗(1句3.3秒)。
とまあ西鶴もその無意味さに気付いていたのであろう、この3.3秒1句の興行を最後にして作家へと転向していく。
ところで俳句はかなり高度なマジカルバナナみたいなもんなのですね。
軽口にまかせてなけよほととぎす
瓢箪あくる卯の花見酒
水心しらなみよする岸に来て
(略)
軽口の軽いところから、瓢箪をみちびきたし、ほととぎすから卯がでてくる。
瓢箪は昔の浮き輪みたいな使い方がされていて、そこから水心がでてくる。
ここでの「しらなみ」は「知らない」と「白波」をかけている。
こーいうのを一昼夜3.3秒で読み繋いでいくわけです。正に天才だったんだろうなあと。
そんな西鶴が、旅でプラプラしながら俳句を詠むような後輩(2こ下)の芭蕉と比べられてバカにされる。そりゃー悔しかったんじゃないかなと思うわけです。
俳句を辞め、作家も転向してからは、再び人気作家として花を咲かせ、後生にも残る作品を残したわけであります。西鶴たんの天才的な観察眼を通して書かれた町人文化は、今読んでも説得力があり300年前の町が目に浮かぶようで。海外でも翻訳されて読まれていると。
なんとなく実際に会うと絡みにくいおっさんな気がしますが、妙に憎めないいいおっさんだったんじゃないかなと(笑)
さてはて、「日本永代蔵」の感想とか書いてみようと思っていたんだけど、とりあえず眠いので尽きてみる。
(つづく) » Read more…
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