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『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』Kai Bird and Martin J. Sherwin

 原爆の父と呼ばれたオッペンハイマー、優秀でリーダーシップに優れた物理学者として原爆開発をひっぱっていくと同時に、共産主義者としてFBIに張り付かれて、うわさも含めて膨大な資料が残っているそうな。それの資料を基に、カイバードさんと、マーティン・シャーウィンさんが、オッペンハイマー(オッピー)であり、その原爆をめぐる議論をまとめた本。
 2006年ピュリッツァー賞受賞作品だとか。
 
 TwitterやFBとかで散々メモったものをまとめ。
 いくつか面白かったところがあって、まずもって、純粋に原爆が作られるところから落とされるまでの、科学者を中心とした議論が丁寧に描かれて、かなり驚かされた。
 1939年1月29日ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンがウランに中性子をぶつけることで分裂を成功させた(上P284)。これをニュースで知った日には、もう科学者たちは爆弾が思いついていたそうだ・・・。ちょうどWWⅡが始まるちょっと前である。
 オッピーたちとしては「なんてことだ、そんな武器を造ったらどんな結末になるのだ、世界中が吹き飛んでしまうぞ、と考えたのだ。われわれの何人かは、この疑問をオッペンハイマーに持ち込んだ。彼の答えは基本的に『ナチがらこれを最初に手に入れたら?』というものだった」(上P318)。が、結果的に気付いたころにはヒットラーは自害し、ナチは終わっていて、日本に落とされることになるのだが・・・。
 そんな議論の中、ボーアがかなりいい味を出してくる。
 1943年12月オッペンハイマーが原爆を開発しているロスアラモスにボーアが登場。これまで、いかにナチスドイツよりも早く作るか、だけが問題だったところ、ボーアの「それは十分に大きいかね?」という一言が「爆弾が戦後に及ぼす影響」という重要な問題に目を向けさせる。もちろんボーアはこれを伝えるために来たのだ(上P442)。ボーアまじすごひ。ここから議論はほとんどボーアの独壇場。
 ちなみにこのあたり、口外しちゃいけないと言われたことを、到着して5分で全部しゃべっちゃってる感じ可愛い(萌)。
 (上P447)このページに書いてあることはほぼかっこいいが、一部だけ
「戦後世界において各国は、潜在的な敵国が核兵器を持っていないことを確信する必要がある。これは、国際的な査察官がどんな軍事施設、産業コンビナートでも完全な立ち入りを認められ、新しい科学的発見に関する情報に完全なアクセスが認められる「開かれた世界」のみで可能である。」これを、戦争が終わる前にやらなければ。そして、いち早くソ連にマンハッタン計画を伝えるのだと。
 仮にこんなことが可能だったら、どうなっていたんだろう。もしは無理だし、スターリン相手でそんなことができるわけがないというのが、現代の色々な人の意見だとか。

 そして、上巻が終わりで、日本に原爆を落とす経緯を、下巻の初めで原爆が落とされる。このあたりは、別の本を参照すべきだろうけど。
 アメリカは対日本との戦争という意味では、日本に原爆を落とす必要はなかった(上P488)
・国防次官マックロイをはじめ、米国政府のトップグループは「おおむねワシントンの条件に沿って戦争を終結させよようと」日本がしていることを、傍受していた。
・トルーマンの首席補佐官ウィリアム・レーヒーは「降伏しなければ、恐らく破壊的な新兵器を使わざるを得ないだろう」と警告をすれば、おそらく戦争の終結をもたらすと予想していた。
・トルーマンはスターリンから、8月15日までに、対日宣戦布告をするという約束を引き出していた。どちらにしろ、日本は敗北していただろう。
 結局、なぜアメリカが日本に落としたのか。この本では明らかにはされていない。
 
 そして、原爆後、オッピーは、原爆の開発で大きな名声を手に入れ、発言力も大きくなる。その一方で、大きな罪の意識に襲われることになる。
 「もう一度大きな戦争が起こったら、原子爆弾が使われることを、すべてのアメリカ人が知っている」「われわれがこの理由を知っているのな、先年の戦争において、われわれが世界で最も開けていると信じたい二つの国、つまり英国と米国が、基本的に敗北している敵に対して原爆を使用したからである」(下P80)
 人が愚かであることが前提であれば、やはり巨大すぎる武器があるというのは恐怖以外のなにものでもないですな。
 オッピーはボーアの考えを踏襲し、核の力は国際管理すべきと発言していく。その一方でそれを嫌がる米国政府の一部や、FBI等(主にルイス・ストロース)にアカ狩りの標的とされていく・・・。
 オッピーは完全に社会的に抹殺され、その一方で、「50年でアメリカは5兆5000億ドルの予算を使い、7万個の核兵器を作った」(下P201)
 このストロースがオッピーらを止め、核の拡散を勧めてしまったが、この人後にやりすぎで信頼を失ってしまう。こんな人が世界の重要なかじ取りに影響を大きく与えるというのは、切ない気持ち。
 
 さてさて、この本の醍醐味は、オッピーが原爆後に元銀行家のルイス・ストロースにじわじわと追い詰められていくところである。
 オッピーは依然共産主義に傾倒していた時期があり、そのころの経歴からアカ狩りをされることになる。その関係で、かなり共産主義の考え方とかが出てくるので、右翼左翼のなんとなくのイメージができてきてそこは面白かった。
 例えば「開かれた社会、知識への制約のない接近、人間の進化のための非計画的、非拘束的交流、これらこそが広範で、複雑で、無限に成長し、無限に変化し、無限き専門化する優れた技術の世界、さらにはなお人間的コミュニティの世界をつくりあげる可能性を秘めています」(下P258)。こういう考えが俗にいう左翼なのかなと思いながら読んでいた。
 自分の思う左翼のイメージとずいぶん違うなと。
 
 あとは、その他ちょろっと
 考えていたのは、個人的にはオッピーのような天才でさえ、手前の事実に翻弄され、判断を誤ったり、先走ったりするんだなと。もちろん、正義感があればこそなのだけど。
 そして、事実だからこそ、正直者が救われると言い切れないし、オッピー自体も必ずしも善人でないところも、恐ろしくリアルで怖い。
 
(上P74)
 オッピーの大学時代はチョコレートとビールとアーティチョークだけのことも多かったとか。これは新海監督の「言の葉の庭」を思い出さずにはいられない。
(上P127)
 1927なので23歳くらいか、この時の恋敵ハウダーマンスが、オッピーと同じく文学にも詳しく、将来ドイツでの原爆開発をすることになるのだと。
(上P140)
 オッピーからの、異性が気になって勉強が手につかない弟(フランク)への手紙が中々よひ
「一緒にいるために、君の時間を消費させようとするのは、若い女性の職業みたいなもので、それを払いのけるのが君の職業だ」
デートというものは「浪費する時間のある人にとってのみ重要である。君や僕には重要ではない」
なおこれらは
「ぼく自身のエロチックな骨折りの成果であり、結果であるから」と(笑)
(上P173)これも明言やわ
「人は女性を心地よくさせることを目指すことはできない。それはちょうど、好みや、表現の美しさや、幸福を目指すことができないのと同じである。というのは、これらのことは、人が習得して達成できる特定の目的ではないからだ。これらは、その人の生活がまあまあ妥当であるか否かを説明したものである。幸せになろうとすることは、静かに動くという仕様しか持たない機械を作るようなものだ」
 
 こんなもんで。

錯聴-無限音階-

 YMOのライブ映像をもひもひ見ながら、検索しているとYMOプログラマーの松武秀樹さんという方の名前が出てきて。そこから「謎の無限音階」という謎のものにたどり着きましたですよ。

 謎の無限音階は、ずーっと音階が上がっているように(または下がっているように)聞こえるという、錯聴音楽なんだそうで。これは面白いということで備忘録。絶対音感の方とかはどう聞こえるんだろう。と若干疑問w
 言われてみれば当たり前だけど、耳も錯覚するんだねー。


↑音量注意。自分で5分もかからず作れるお手軽なかんじですた。

hirax.net::無限音階を作ろう::(1998.11.12)
ここの解説を見ながら。

IllusionForum
錯聴も色々あって面白い。

ではまた

『スティグリッツ入門経済学』ジョセフ・E・スティグリッツ

スティグリッツ入門経済学 第2版
(Joseph E. Stiglitz, 1943年2月9日 – )読了
訳者は
藪下史郎・秋山太郎・金子能宏・木立力・清野一治

 思い出した!元はケインズ読もうとして挫折して、これに取りかかったんだった。ということは、またケインズを。しんどいわ!
 ここまで読んだら同じシリーズのマクロ経済、ミクロ経済も読みたいし。しんどいわ!
第1章 自動車産業と経済学
第2章 経済学的な考え方
第3章 取引と貿易
第4章 需要・供給と価格
第5章 需要・供給分析の応用
第6章 時間とリスク
第7章 公共部門
第8章 マクロ経済学と完全雇用
第9章 経済成長
第10章 失業と総需要
第11章 インフレーション

 前回「GDP増やすことしか能がない」等と、門外漢が適当に批判したけどやっぱりこれは違うな。経済学も他の学問と同じで、ただの道具としてつかってナンボやと思い直してみたり。
 経済学という道具セットのよく使われる道具の名前と機能だけは一応了解した。と言う感じですな。これで、エセ経済学者の情報は排除できるようになり、最低限の基本的な議論にググりながら参加できるようになるはず。

 後半読んで
「公共財」という考え方と「情報」の関係(ソースは無料)
ソニーや原発やユッケ問題についての「外部性」の問題(情報の話を添えて)
失業率を決定する「フィリップ曲線」の話(インフレとの相対する風味を楽しんで)
経済を一気に成長させる(?)「乗数効果」の話(そう簡単にイカんだろ風味)
そして、この今回の地震についての復興を経済学で見ると(能力オーバー多少の焦げ目と共に)

的な事を書きたいのだけど。
今日は時間がないので、テーマあげただけで放置。
需要があるか書きたくなったら発掘予定。経済学面白い。

上から読んでも下から読んでも山山山

わけいってもわけいっても許されない 言い訳三投下

 この3日間家で引きこもって本を読んでいる予定だったところ、ありがたいことに方々からお誘いを受けあっちゃこっちゃら行って参りました。貴重なWEBリソースを少々消費させて頂きます。

ボルダリングの図

ボルダリングの図

 一日目5月3日。ボルダリング(岩をヒモとかなしでガシガシ登るスポーツ)を行うために豊田市へ。
 ボルダリングはタダ岩があれば良いというわけでもなく、コケを落としたり、難易度が設定されていたり、道が整備しされていたりと先人が切り開いてくれた場所で行われることが多く。そして、豊田市はちょっとしたボルダリングの名所のようです。
 左画の通りマットを敷いて登るわけですが、落ちる時に気を付けないとマットから外れたり、マットの上でも落ち方が悪いと、まま痛い目に。前年末にこれで強打してエライ目に遭いました。とはいえ、数ある山系スポーツの中でも、死亡事故にまで至るようなものは少なく、比較的取り組みやすいのかなと。私が強打したのも調子にノッていたのが悪かったわけで…。
 近頃はボルダリングをする人は着々と増えておるようです。体重が軽い方が有利なこともあり、女性にも中なか人気があるようで。スポーツジムも急激に増えてきており、ジム内だけでやる方も多数。もし興味が在れば誘ってくだされ。

 ところで、一緒に登っている面々は「THE☆山男」なので、色々おっそろしい話なんぞも聞かせて頂きながら。この人たちといると、どう転んでも人生どうにかなる気がしてしまうのが、困った事です。そんなワイルドな話を聞きながら、実際の岩の質感や温度を感じながら、自然に身を包まれながら登るというのはまた格別の気持ちでござんす。

権力への反抗

権力への反抗

 5月4日。豊橋市の葦毛湿原(うもうしつげん)へ、写真部の面々と撮影会へ。
 大学時代、新聞部の取材であった彼(⇒)と一度飲もうと言いながら、いつのまにか4~5年。ふと思い立って連絡してみたところ、「撮影会するか」と言うことに。なんだかんだで、先方は写真部4人。私も新聞部の後輩1人を連れてきまして、湿原へ。全員男DA。
 撮影会と言うことで、さすが写真部様、ゴッツイ10万超えのカメラをみなさんご持参で。
 本当に皆さん熱い方々で、1人は話を聞いていると写真雑誌(多分「カメラマン」という雑誌だったと)の金賞を受賞されたとか。キャンプファイヤーの炎の用に燃えさかっている男は少々苦手ですが、ガスコンロの青い炎の様に静かに熱く燃えている男は大好きです。
 自分のカメラは5~6年前購入のCANON Power Shot A530で2万円程度で買った品。これについても今更ながら色々な機能が付いていることを教えてもらっていました。シャッタースピードやISO感度の使い方等を恥ずかしながら初めて知りました。家に帰ってそれぞれの設定値で撮ったモノを見比べて改めてビックリ。これは面白い。
 ところで、写真部新入部員の子(18才!!!!)がいたけど、辞めるということにならないと良いのですが。撮影会と集めておきながら、おっさんの口車に乗せられてプチワンゲル部のごとく山を登り始めているし、その途中の会話が卑猥で卑猥で。何回「おっぱい」と豊橋で叫んだことか。「俺のマグナムが」と叫んでいたことか。
 イヤイヤイヤ誤解しないでよ、彼(⇒)がね。まあでも彼との話し合いの結果、やっぱりおっぱいはあってもなくても、どっちもどっちで良いところがあるよね。というところで合意に達しました。
 色んな風景写真も撮ったのですが、やっぱり素人が取ると平凡なんだよなー。悔しい。なんだかんだこの写真が一番イイ。この写真は、監視カメラを付けて人々の自由を侵害し監視社会への一歩を踏み出している自販機に反抗すべく、反社会的な写真を撮ろうとしていた彼の勇士を写真に納めた物です。

筍ご飯ウマーーー

筍ご飯ウマーーー

 5月5日子どもの日。一路常滑へ筍採り。
 新婚さんのお家へお邪魔させて頂き、筍を採らせて頂きました。とは言っても、採っていたのはほんの1時間もないくらいの時間で、あとは写真の筍ご飯作り。箸から器から何から何まで自然物(主に竹)を使っての調理。(さらに、エンドウご飯、しいたけご飯もあるんだZE!!)
 ところで、「筍は埋まっているのが美味い」というのは迷信だそうです。1メートルくらい伸びたやつの、上のサキッチョが一番美味いらしい。実際美味い。理屈を聞けばなるほどで、埋まっている子は、ふみつけられたりして大きくなれる可能性が低い。しかし1メートルも伸びれば、大きく成長できる可能性は高くなる。だから、竹は1メートルくらいになるところで、栄養分を集中投下するんだとか。だから、ちょっと伸びたくらいが美味いんだ!と。進化って凄い。あの超賢い旦那さんがなぜ農業なのか。なんとなく理解できる気がしました。
 そんな美味い筍を調理してくれている横で、私は竹を削ってひたすら箸を作っていました。
 形を整えようと削っていると、どんどん細くなるんですな。ご主人に「串?」と突っ込みを入れられ、さらには「つまようじ?」と。
 ええ、ええ、不器用ですよ!
 そんなこんなで、できた、そのご飯の美味い事、美味い事。急襲した私なんぞにここまで振る舞って頂き、感謝の念に堪えません。それにしても、「筍ご飯は市販だと2000円ね!3つ作ったから6000円。大豆いれて6400円!」としっかり恩の金額まで教えて頂けるところは、商売人の鑑であると想うわけです。いや、こういうのは大事ですよマジデ。しっかり稼いでください。
 今度は奉公させてください。それにしても、ええ旦那さん捕まえましたな。
 その後、奥様と餅食って、ちょいと海で黄昏れたりして帰りました。

 とまあこの三日間、とにかく自然を満喫して参りました。これだけでなく、飲み会があったり、めでたい報告なんぞも受けたり、相当充実した三日間でございました。
 会った人の人数総勢14人。ほとんど私は笑っていただけで、色んなモノ・事を教えて頂き、食べさせて頂き。なんか、幸せだなーと思うと同時に、自分には何ができるんだろう・・・とも考えさせられたり。
 何はともあれ、本当にありがとうございました。こんな奴ですがこれからもお願い致しますm(__)m

There is no such thing as a free lunch.

 まっ黒な日記を目にするとしばし興奮する。という自分のフェティシズムに気付いた今日この頃。もちろん妙に改行が入っていたりとか、各行短かったり、絵文字沢山では興奮が薄れる。萌えるのはやっぱりまっ黒。
(まっ黒ってのは、文字がいっぱい詰まっていると言う意味です。)
 色々な想いがあふれ出ていて表現がパンクしそうな感じがたまらない。
 そういうの自分は書けない。まっ黒な日記。結論数行書くだけで満足してしまう。あとは引用。できないことに憧れる。これは人類共通に違いない。

 このGWは特に誰に誘われるわけでもないので、まったり本でも読んでいます。やっぱ人混みは行きたくないし。みなさんのまっ黒日記を楽しみにしております。
——————–
 さてはて、GWの課題図書「スティグリッツ入門経済学」。→のやつは第3版だけど、読んでいるのは第2版。
 そもそも工学部出身の自分には経済学に対する素養というものが全くないわけで。そのくせ経済学に対する偏見があって「GDP増やすことしか能がない」と思っていたりします。経済学者が言うことは「成長」という言葉ばかり。気にくわない。それならそこで、敵と戦うには敵を知らねば。あとは、仕事柄まわりに経済学部の方が多い業界なので、基礎知識として。と思って読み始めたけど結構想像以上に面白いぞこれ。
 この本はとても読みやすい。数式は殆ど無いが、例が豊富で、具体的な数字もかなり与えられているので、イメージしやすい。計算したけりゃ勝手に計算できるし。これはお勧めできる。
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2010年の自分を振替ってみるのコーナー(あけおめ)

 あけましておめでとうございますm(__)m
 ふつつつかものですが、本年もよろしくお願い致します。

 税理士試験のことでもまとめるかと思っていたらいつの間にか、新年明けてしまいました。
 ちょいと、昨年を振り返ってみます。(ほんとは年末にかいてるよん)

Twitter

 私にとって昨年の一番のキーワードはTwitterだったりするかもしれませぬ。

ブログとTwitter投稿数


1人寂しく寝られない夜にはTwitter!
クリスマスの夜も、明石家サンタを見ながらTwitter!!
僕はいつでもTwitter!!!
というほどではありませんが、Twitterにはまった一年でありました。
 Twitterが面白いのは、結構な知識人(税関係の先生方)や芸能人(宇多田ヒカルですな)が参加していることがとてもでかい。ブログや普通のニュースサイトはある程度、完成された文章を掲載することになるため、不完全なネタは普通載せない。しかし、最新の情報や重要なポイントは不完全なネタレベルだったりするわけで。それを聞くことができるTwitterというのは、かなり情報収集に役に立つ。
 それは、税務情報や宇多田情報はもちろん、女性の普段聞けないようなちょっとした愚痴なんかも聞けちゃうわけです(嬉しいかどうかはともかくとして)。しかも、コアな話題であればあるほど、知識人と会話に発展しやすいです(誰でも興味のある話題だと、なかなか下々のものとしては会話しにくいですが)。

 さらに、アウトプット側としてはTwitterはブログとちがって一度に140字しか書き込めないので、文章に凝りようがなく、強制的に気楽に文章を書くことになります。Twitterは気軽なのででアウトプットし始めると、ブログの役割が相対的に落ちてしまう。私の場合ざくっとみて、ブログ1記事が80つぶやきに変換されている感じですな。
 今ではきちんと完成された文章まで持っていくことの重要さを十分感じるので、ブログに再び想いが戻ってきている感じです。やっと両立してきたかなという。来年は、またブログが増えていくんじゃないかな。

これからの「正義」の話をしよう

 昨年は完全に文系に目覚めた一年でもありました。面白いのよねえ、経済学とか哲学とか思想とか宗教とか。
 一番きっかけになったのは『これからの「正義」の話をしよう/Michael J. Sandel』でした。この本を読むまで、ベンサムだの、カントだの、ロールズだの、アリストテレスだの全く知らず。本当に名前しか知らないじょうたいでして・・・。
 この本を読んでからと言うもの、経済や法律や思想といったもののベースとなっているものがやっと見えてきたという感じで、違和感なく読める本が一気に増えました。で、今年はマルクスだとか、ケインズだとか、聖書だとか、基本中の基本であろう本を読みあさり始めています。(これを友人に話と、つまらん男だなあという目で見られるのよ。文系差別を撤廃すべしw)
 昔は、こういった文系の学問は生産性がなく無駄だなあと思っていましたが、理系が生みだす道具よりも強く直接的に人に影響を与える物であり、幸福に直結する物なんだなあとびっくらする日々です。
 

税理士試験の合格

(実はまだ、合格証が届いておらず「やっぱ不合格」とかいう事が0.5%くらいありえるのですが。その場合は何も言わず雲隠れして勉強していると思います。そっとしておいてください。餌は与えないでください。)
 昔から主賓になるのは嫌いで「お祝い」からはずっと逃げてきました。が、今回はちょいと趣向を変えて、自分からしっかり広報してみました。
 税理士になりたいと思ったのは、一番ストレートな理由は周りの役に立てるなと思ったからです。理系大学なので、税理士になろうって人も少なかったし、会計士と医者と弁護士は知り合いに持っておけといいますからね。なのに、私が税理士になっても、それを知られていないのでは意味を成しませぬからねと今回は厚かましくも、色んな方に報告させて頂きました。是非、今後はガンガンこの男を利用してやってください。

 祝われながらずーっと感じたことは「緊張するな」ってことでした。
 人に期待されると緊張するんですね。
 ところで少し話が変わりますが、昔から「責任」の定義をずっと悩んでいました。わからないなりにも、大学でサークルやる時には名刺に「総責任者」としたのは良い思い出です。自分で総責任者と言うと緊張するもんです。
 今回、おぼろげながら気付いたことは「責任」=「期待」なんやなと。これから、ガンガン勉強して、期待に添えるようにならなきゃいけないわけです。「どんな仕事がしたいか。」と聞かれて、答えはなくもないですが、正直なところ期待に添えるようになることがまずは当面の課題かなと思っています。
 ひとまず試験勉強は終わりましたが、本当に重要な勉強をこれから始めるわけです。

 あと、恥ずかしながら、「友人ってええなー(恩師込み)」ってこと思いまして。いや、ほんとこんなことをこの年にして思うのもどうかと思いますが。うーんなんていうんだろう。結構マジで祝って貰ったりして。ほんと自分のために税理士試験受けてただけなのに、色んな人が心配してくれていて。
 ありがとうm(__)m恩は絶対返すからな!覚えてろよ!

宇多田光

 宇多田の項目は最後。また書きたいし。
 今年1月終わりから2月にかけて初めて海外に行きました。それはUtadaのライブのため。
⇒ Utada in Chicago “Utada In the Flesh 2010″ part 1
⇒ in Chicago part 2
 私は、宇多田は好きだけどそれ以上に、彼女の行動から新たな世界を手に入れる口実でもあったりします。
 今回は「Utadaのライブを見たい!」という事を口実にシカゴまで行ってきたわけです。もちろんUtadaライブが最高にすばらしいもので言うまでもない!

1967年8月15日公開⇒シカゴ・ピカソ

 当時の日記では、私は現地の人に注目しているようですが、「建築物」と「シカゴ美術館」もよかった。
 日本で高層建物が凄いと言っても、普通単発だと思うわけです。それは、ほとんど施主は利潤などを最優先にして、建築しているんだろうなあと思わされるところです。
 しかし、シカゴとの高層建築は隣のビルとデザイン勝負をしかけているわけです。使いにくいフロア構造になっている高層ビルの多いこと。なんというか、町が好きなんだなっていう感じです。さくっとピカソのオブジェがあったりするし。
 シカゴは米国でも最大の「人種のるつぼ」らしいのですが、そのぶん「地域」にアイデンティティを求めるのかなと言う気がしました。

 もう一つの「シカゴ美術館」これもよかった。
 冬のシカゴってのは、冬の北海道にいくようなもんで、くっそ寒い。しかも雪祭りとかあるわけじゃないので、観光客は殆どいない。
 なので、本来シカゴで長蛇の列ができるようなところも、人は数人のところばかりで、ゆっくり滞在し静かな時間を過ごせる。シカゴ美術館も例外ではなく、びっくらするくらい有名な絵も誰も見ておらず、1人占め。
 全く絵に詳しくないのでヤボな事は避けますが、ゴッホの自画像とか、近くで見ると肌の色一つのために色んな色を使っているんです。油絵だから、そうなんだろうけど。そこに緑かよ!遠くから見るとめちゃ完璧じゃん!みたいな、頭の中どうなってんだろうとしみじみおもったり。
 あとはモネの睡蓮。色々な睡蓮があって並べてあるんだけど、寂しいっすよね睡蓮って。そして何よりもモネ先生は水も書きたかったんだろうなあと。でもさ、色んな絵を描いて最後にたどり着くところが睡蓮って、なんか寂しくないですが?ゆっくりそんなことを考える、本当に言い一日を過ごしました。
 あそこは何日でもいられる。(1日いたけど、全部見ることさえできてない)

 聖書読んだり、米国の歴史勉強してから冬のシカゴにもう一回行きたい。

 まあ他にも色々あったっちゃあったけど。ブログに書ける話と書けない話があるよね(笑)
 何はともかく。今年もよろしくお願い致しますm(__)m

Utada in Chicago “Utada In the Flesh 2010″ part 1

 ChicagoにUtadaの声を聞きに行ってきました。

Chicagoで最も高い建物WillisTowerより

 2006年に日本で宇多田ヒカルの声を聞き、大きな影響を受けた。その時の情動のまま大学を休学し税理士試験を目指すことになった。
 そして今回のライブでも同じように大きな影響を受けた。仮に、今回日本でのライブだったら前回ほどの感動は無かっただろうなぁ。最終日のメインディッシュであるUtadaライブは、Chicagoという壮大な前菜の力を受けて、予想通り予想外な感動を与えてくれたのだった。

夜になるとこれが摩天楼になるのだ!

 4年分の涙を流してきたよ。

 つづく?

名古屋市科学館のプラネタリウム

 名古屋市科学館でプラネタリウムを見てきた。(時間がなかったのであまり他の展示は見れなかった。)

 名古屋市科学館では、おっちゃんが生で星空について語ってくれる。

 最初に機械の説明。プラネタリウムの機械は、1962年11月から稼働しているらしく46年間動き続けている。ほとんど大きな故障もなかったとか。
 しかし、来年の8月には第一線から退いてしまうそうです。科学館は今絶賛改装中で、正確な宇宙を描くため、プラネタリウムはさらに大きい物になるらしい。(現在直径20メートルで、改装後直径38メートルだったかな。)
 今普通に生活していて46年前からずっと現役バリバリで働いている機械なんて、なかなか見ることはない。そういえば、人間が20で就職して定年くらいか。
 この機械を見るだけでも、宇宙のおもしろさが透けて見えてくる。天文学者が世界の科学をリードしていたというのは理解できるなあ。

 更に星の色について語り始めたと思うと、「この色をスペクトルにかけると」なんて話になってくる。ロマンチックなただのプラネタリウムとはひと味もふた味も違う。さすが科学館。
 星の光をスペクトルにかけると、その星の温度、年齢、構成する物質、いろいろな事が解ってくる。それをプラネタリウムの星空をキャパスにして聞く。贅沢だねぇ。

 おっちゃん曰く、名古屋の明るい夜の空は、星空初心者にはもってこいだそうだ。
 この星空で、まずはわかりやすい明るい星を見つける。その上で、綺麗な夜空に行けば星空の海で迷子にならないそうだ。

 今は夏の第三角形と木星が名古屋でもよく見える。

 たった600円。また来よう。絶対行こう。

(自己メモ)
 具体的には、温度が高い星ほどスペクトルのピークが紫外線の方向に寄っていくので、色が青に近くなっていく。温度が低い星はスペクトルのピークが赤色や赤外線のあたりにあったりする。つまり、星の色は温度を表すことになる。
 さらに「星の明るさ」と「表面温度」を軸として星を並べてみると、一つの相関が見られる。一定の間隔で温度が高くなるほど、星の大きさが大きくなる。(軸「星の明るさ」はうろ覚え。検索してみると、絶対的な明るさが来る感じ。)ここから外れる物が、赤色巨星とかになって、末期の星と判別されたりするらしい。