『世界史』William H. McNeil(西欧の優勢1500年~)

※P79くらいまででひとまず。長くなりすぎ。
もとがわかってないから感想を書くにも時間がかかりすぎる!
まー学生時代にサボったつけでござる。

さてはて

 西暦1500年までは「文明の生活スタイルが、そのまわりの未開文化を圧して、時には、失敗を犯しながらも絶えず更新していく過程である。それはまた、中東、インド、ヨーロッパ、中国の四つの大文明の中心地の間に、大ざっぱな均衡が成立する過程でもある。(上P204)」。
 そして「1500年という年は、世界史においてもまた、重要な転回点となっているヨーロッパ人による諸発見は、地球上の海を、彼らの通商や征服のための公道(ハイウウェイ)とした。このようにしてヨーロッパ人は、人間の住み得るあらゆる海岸地方において新しい文化的前線を作りあげた(下P35)」

航海王子エンリケ王子

ヘンリケ王子(wikiより) まずはポルトガルのエンリケ王子(1397-1460)が時代の立役者になる。王子が「手に入るかぎり最大の理論的知識を、伝統的名航海者や造船技術者たちの職人的な技術と結びつけ(下P40)」たらしい。正確な時計ができるまでは緯度経度を知ることは難しかったが、しかし王子が天文学者や数学者を使って天体の位置から自己の位置を知れるような「表」を作らせて、ポルトガルの船長に配ったそうな。具体的には、正午における太陽の位置で緯度を計れるそうな。これによって、ヴァスコ・ダ・ガマは陸地を見ずに97日航海をしたと。確かに自分の居場所もわからないのに陸もないところを航海できんわな。
 さらに造船技術が急速に発展した。エンリケ王子の時代に、一枚の帆の船ばかりだったところに、複数の帆を持つ船を作った。これによって風や波に対応できるようになり、さらに大型の船舶の建造を可能にした。大きな船舶は、重砲の衝撃にも堪えられるため海戦のありかたも変えた。

 これらの影響を、ウィリアム氏は3つに分けている

  • アメリカ大陸からの大量の金銀の流入に伴う価格革命
  • アメリカ大陸からの作物の伝播
  • 病気の拡大

 後者二つは、「銃・病原菌・鉄」なんかにもしみじみ書かれているけど、一つ目は。
 つまり、アメリカ大陸から金銀が流入してきてインフレが起きた。というか貧富の格差ができた。このせいで「確たる日常生活の中のすべての安定性は、1500年と1650年の間にヨーロッパにおこった激しい物価変動のため一夜にしてついえ去った(下P47)」そうな。それまでも香辛料やらなんやら、色々貿易はあったと思うけどアメリカの金銀の持つ威力はすごかったんですな。
 作物はトウモロコシ(中国南西部、アフリカ、ヨーロッパ南東部)、サツマイモ(中国)、ジャガイモ(ヨーロッパ)に広まり、こと西アフリカでは人口増大に寄与し、奴隷輸出とも関係あると。

ヨーロッパ色々

 1500年と1648年の間の、政治の分野におけるヨーロッパの発展の主要な動向を見極めることは、細部においては問題は著しく複雑であるにしても、そんなに難しいことではない。中世全体にわたって見られた、支配権の重なり合った複雑な状態と比べれば、権力は比較的少数の中心に集中する傾向を示した。

国家規模で統合が行われた:フランス、スペイン、イギリス、スウェーデン
もっと小さな単位が宗主権を握った:中央ヨーロッパ
貴族や都市の特権が温存:ポーランド、ハンガリー
単一の帝国的統治の下に服従:ロシア、トルコ

 これらの原因は、プロテスタントが現れ争っている間に、政府が漁夫の利のように得ていった面、また軍事技術が高まり、必要な資金が大きくなり貴族では手に負えないほど高価になったこともあるようで(下P56の辺り)。

イギリスなるもの

 この辺で、イギリスの内乱(1642-1648)の下りが面白かった。

 この戦いは絶対主義の君主制への傾向に対する反抗であった。勝ちを占めたのは、近代的で能率的な王の官僚政治に対抗する議会派であった。宗教改革自体と同じく、議会派の主張は、根本的に反動的であった。というのは、それはイギリス人の伝統的な自由(マグナカルタその他)の再確認と、聖者による政府を志向する仮借ないピューリタンたちの努力に基礎をおいていたからである。しかし、他の成功した革命家の場合と同じように、権力を握ったピューリタンたちは、自分たちの計画を裏切らざるを得なくなった。

 一つには、マグナカルタってのがちょっと頭に入ってきた。ジョン王(1167.12/24日 – 1216.10/18?19?日)が、フランス(フィリップ二世)に負け戦を仕掛けて、臣民からの支持を失った。そこで、ジョンたんは退位したり処刑されるのを避けるために、「王の権限を制限する文書に国王が承諾を与え」たと。(wikiより)そのジョンたんは1年チョイあとに赤痢で亡くなったと。
 なんとも、切ない人生ですな。しかしながらそのマグナカルタが、イギリスの内乱(清教徒革命)やらアメリカ合衆国の独立の支えにもなってるという。ジョン王もそんなことになるとは露程も思っていないことだろうねえ。面白い。

 そしてもう一つには、今の日本みたいな話だね。官僚制度に議会派が立ち向かっていく。議会派は理屈があるというよりは、「反動的」なリアクションである。
 で、このオチは議会派が勝ちはするが、軍事独裁になり結局回らなくなってしまうと。

◆書くべきことがもっとたくさんあるYO

宗教改革

 マルティン・ルター(1483-1546)が面白いねえ。
 元々はイスラム教との戦いやらなんやらで、「教会と国家との間に、他に類を見ない親密な関係が生まれた。(P69)」。そんな中、調子に乗ったカトリックが「免罪符(Wikiだと贖宥状(しょくゆうじょう)と)」を発行し、聖ピエトロ大聖堂を建設資金に使おうとした。
 これをルターはまじめにおかしいやないかと思い、大学の掲示板に「95ヶ条の論題『贖宥状の意義と効果に関する見解』」として貼り出した。で、この紙が独り歩きを始め、宗教改革の発端となっていく。

 ルターは、自分の主張の根拠を、聖書と、彼が自由に神から受けた恩寵と感じている個人体験に置いていた。彼はさらに、罪ある個人と神の間を聖職者が仲介の役割を演ずる必要を否定し、大胆にも、すべての信者が司祭であると宣言した。印刷機械がルターの見解を、速やかに、広くドイツおよびその近隣地方に広めた(P70)

 カトリックは焦っただろうねえ。
 途中「反乱する農民たちが、キリスト教の自由を、税や小作料の免除を意味するものととったとき、ルターは激しく農民たちを非難した(1525年)」。ルターに関してはいたって真面目な人だったんだなと。

 ルネサンスとかの話は塩野 七生先生の本も控えているので、その時に備えて省くけれども、「知的な多元論が、ヨーロッパの土壌に、それ以前のいかなる時代と比べても強く根付いたのである(P78)」ってところにジーンときたね。

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