Monthly Archives: 12月 2011

本『銃・病原菌・鉄』Jared Diamond 訳:倉骨彰

 生物は多種多様な変化と、淘汰を繰り返しながら今の形になってきた。人間ももちろんその中の一種。ここまでは利己的な遺伝子を読んで、理解したつもり。

 さて、その進化した人間のうちでも、アフリカや南米のように貧困に喘ぐ地方と、欧米やわれらが日本のように悠々自適な生活をしている地方がある。なぜこんな違いが生まれるのか。
 白人と黒人で遺伝子レベルで違いがあるのか調べてみても、どーもそうではない。遺伝子では説明のできない、民族・地方間の格差の理由。これを、上下巻にわたってつらつらと書かれているようだ。(書いている時点で、上巻までしか読んでいない)
 例えば、農耕しやすい植物があったか、農耕に移るモチベーションはあったか、家畜化できる動物がいたか等など、世界の各地方の実情から、現状の格差の理由を導き出してくる。
 この本の根底には、今の生活水準や身分の違いは、欧米が努力したとかそーいうことではなくて、環境なんだと。運がよかっただけですよ。という感情が流れているのだと思う。

 とまあ、普通は読み終えてから感想などは書きたいのだけど、この本で本筋とはちょっとズレルのだけど、非常に衝撃的な歴史を目の当たりにされたので、それだけ別立てでメモっておきたいなと。ちょっと長いけど引用する。

 1835年11月19日、ニュージーランドの東500マイル(約800キロ)のところにあるチャタム諸島に、銃や棍棒、斧で武装したマオリ族500人が突然、舟で現れた。12月5日には、さらに400人がやってきた。彼らは「モリオリ族はもはやわれわれの奴隷であり、抵抗する者は殺す」と告げながら集落の中を歩き回った。数の上で2対1とまさっていたモリオリ族は、抵抗すれば勝てたかもしれない。しかし彼らは、もめごとはおだやかな方法で解決するという伝統にのっとって会合を開き、抵抗しないことに決め、友好関係と資源の分かち合いを基本とする和平案をマオリ族に対して申し出ることにした。
 しかしマオリ族は、モリオリ族がその申し出を伝える前に、大挙して彼らを襲い、数日のうちに数百人を殺し、その多くを食べてしまった。生き残って奴隷にされた者も、数年のうちにマオリ族の気のむくままにほとんどが殺されてしまった。チャタム諸島で数世紀の間続いたモリオリ族の独立は、1835年12月に暴力的に終わりを告げたのである。(P77-78)

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絵本『もっと知りたい伊藤若冲』佐藤康宏

 伊藤若冲この人も、道なき道を作った人だなあ。
 新しいことをしようとしているわけではなく、ただ満足できないところにこだわり続ける。

いまの画というものは、みな手本をもとに描くばかりで、
いまだ物を描けたものを見たことがない。
そして技術によって売れることばかりを求めていて、
技術以上に進むことができたものがない。
自分が人と違っているのはこの点だけなのだ。
(伊藤若冲)

 私は絵についてはさっぱりピーマンですが、そんな中で直感的に恋した画家。美しく活き活きとした絵を描く。動植物の命がコノ人の絵にはそのまま入っている。
 最初に若冲を見たのは、友人に誘われた若冲展。ポスターに宇多田ヒカル/SAKURAドロップスのPVにもご出演の象が載っていて興味がわいたのでイソイソとでかけて、見事に落ちた。なお、この象については、後に「樹花鳥獣図屏風(静岡県立美術館蔵)」の象で、若冲に関連はあるが若冲の絵ではないということを知る。

SAKURAドロップス/Utada Hikaru Official YouTube Channe
樹花鳥獣図屏風
↑樹花鳥獣図屏風

 伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳6年2月8日(1716年3月1日) – 寛政12年9月10日(1800年10月27日))
 京都生まれ京都育ち生涯独身。絵を描きながら、家業の青物屋を経営する。40歳のときに弟に家業を譲り自分は絵に傾倒する。1788年(天明8年)73歳の時に、天明の大火で家を失う。一時大阪に居候したりしながらも京都に戻り、絵一枚を米一斗(一斗缶を思い出すべし)で売り歩き、「米斗翁」などと名乗りながら1800年に亡くなったそうな。
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『現代語訳 学問のすすめ』福澤諭吉 訳:斉藤孝

※歴史の知識は恐ろしいほど欠如しているので、つけたし、意見コメント大歓迎。

 進路に悩む若者としては福澤先生の話は中々面白かった。でもこのおっさん、近所にいたりすると絶対にウザイです!こんな説教くさい武士の絵が財布に入っていると思うと、生活しにくくてかなわんわ。とはいえ、福澤先生もこんなヤワな私のような人間は蟻以下と思われているのでしょう。中々財布の中でお目にかかれないわけでして(笑)

 福澤諭吉(1835年1月10日(天保5年12月12日)~1901年(明治34年)2月3日)
 豊前国中津藩の下級武士の次男(末っ子)として生まれる。今の大分県の藩で、一旦は大阪で生まれるも、すぐに大分県の中津に移り少年時代を過ごす。19歳のときに長崎で蘭学を学んだりしつつ、あっちーこっちー行ったりきたりしつつ、1858年に江戸で慶応義塾大学の大元を作る。
 この福澤先生は幕末真っ只中に生きたにもかかわらず、政治の世界には入らなかったようで。きちんと民間の教育をしたかったということだそうです。
 まあ、「学問のすすめ」にも偉そうなことかいてますが、人に命令されるのが嫌いだっただけじゃないかと勝手に想像してしまいますわ。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」(笑) » Read more…