絵本『もっと知りたい伊藤若冲』佐藤康宏

 伊藤若冲この人も、道なき道を作った人だなあ。
 新しいことをしようとしているわけではなく、ただ満足できないところにこだわり続ける。

いまの画というものは、みな手本をもとに描くばかりで、
いまだ物を描けたものを見たことがない。
そして技術によって売れることばかりを求めていて、
技術以上に進むことができたものがない。
自分が人と違っているのはこの点だけなのだ。
(伊藤若冲)

 私は絵についてはさっぱりピーマンですが、そんな中で直感的に恋した画家。美しく活き活きとした絵を描く。動植物の命がコノ人の絵にはそのまま入っている。
 最初に若冲を見たのは、友人に誘われた若冲展。ポスターに宇多田ヒカル/SAKURAドロップスのPVにもご出演の象が載っていて興味がわいたのでイソイソとでかけて、見事に落ちた。なお、この象については、後に「樹花鳥獣図屏風(静岡県立美術館蔵)」の象で、若冲に関連はあるが若冲の絵ではないということを知る。

SAKURAドロップス/Utada Hikaru Official YouTube Channe
樹花鳥獣図屏風
↑樹花鳥獣図屏風

 伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう、 正徳6年2月8日(1716年3月1日) – 寛政12年9月10日(1800年10月27日))
 京都生まれ京都育ち生涯独身。絵を描きながら、家業の青物屋を経営する。40歳のときに弟に家業を譲り自分は絵に傾倒する。1788年(天明8年)73歳の時に、天明の大火で家を失う。一時大阪に居候したりしながらも京都に戻り、絵一枚を米一斗(一斗缶を思い出すべし)で売り歩き、「米斗翁」などと名乗りながら1800年に亡くなったそうな。

 若冲先生は絵に対して大層熱心な勉強家であったことが伝わってくる。はじめ狩野派というメジャーな絵の学校に通い、ある程度マスター。でもって「ここで学んでも狩野派超えれねえわ」と、中国の絵(宋元画)に切り替え模写すること一千点。恐れ入ります。
 当然待ってましたのごとく、「模写しても宋元の絵師を超えれねえわ」と・・・。
「日本の人物を描くのは堪えられない。実際の風景も絵にするほどのものに遭遇したことがない。やむなく動植物ということになろうか。孔雀・かわせみ・おうむなどはいつも見るわけにはいかない。ただ鶏は村里に飼われているし、その羽毛も美しい。自分はこれから始めよう」
 と、鶏を飼い、ひたすら鶏を描きまくる。で、その鶏は総じてめちゃ可愛い。こんなツンツンした事言いながらも、大層なツンデレでございます。

老松白鳳図

老松白鳳図

 で、この本を読んで意外だったのが、めっぽう地域のために働いたりも一生懸命していたらしい。引きこもりのイメージだったので。
 1772年若冲先生のいた錦高倉市場が奉行所に市の開始を禁止される。なんかと思えば、背景には錦高倉市場を廃止に追い込もうと、五条問屋町市場が奉行所に金を送っているようだ。
 町年寄若冲先生は、始めは金を集めて対抗し、どうにか再開にこぎつける。しかし、また五条問屋町が二倍近い金を払いまた廃止(なんか不思議な時代・・・)。そこで、若冲先生は青物売りに声をかけて奉行へ声を上げさせるなど、精力的に活動していたようで。
 それにしても、なんつーか中々厳しい時代だったのですねえ。ちなみに、ちょいと調べてみると1772年は十代将軍徳川家治の時代。もっと言えば、田沼意次の時代だったようです。関係あるのかしらん。

 こういう話を読むと、若冲先生の絵に対する印象も変わる。若冲先生の絵はおそらく町に溶け込んでいたんだろうと。若冲先生の絵をよく見ると「錦街若冲製」とか描いてあるものもある(雪中錦鶏図)。
 ますます好きになりましたぜ!
 そうそう右の絵は、老松白鳳図(1765-1766)。右上の鳩ちゃんも可愛い。

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