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『オッペンハイマー 「原爆の父」と呼ばれた男の栄光と悲劇』Kai Bird and Martin J. Sherwin

 原爆の父と呼ばれたオッペンハイマー、優秀でリーダーシップに優れた物理学者として原爆開発をひっぱっていくと同時に、共産主義者としてFBIに張り付かれて、うわさも含めて膨大な資料が残っているそうな。それの資料を基に、カイバードさんと、マーティン・シャーウィンさんが、オッペンハイマー(オッピー)であり、その原爆をめぐる議論をまとめた本。
 2006年ピュリッツァー賞受賞作品だとか。
 
 TwitterやFBとかで散々メモったものをまとめ。
 いくつか面白かったところがあって、まずもって、純粋に原爆が作られるところから落とされるまでの、科学者を中心とした議論が丁寧に描かれて、かなり驚かされた。
 1939年1月29日ドイツの科学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンがウランに中性子をぶつけることで分裂を成功させた(上P284)。これをニュースで知った日には、もう科学者たちは爆弾が思いついていたそうだ・・・。ちょうどWWⅡが始まるちょっと前である。
 オッピーたちとしては「なんてことだ、そんな武器を造ったらどんな結末になるのだ、世界中が吹き飛んでしまうぞ、と考えたのだ。われわれの何人かは、この疑問をオッペンハイマーに持ち込んだ。彼の答えは基本的に『ナチがらこれを最初に手に入れたら?』というものだった」(上P318)。が、結果的に気付いたころにはヒットラーは自害し、ナチは終わっていて、日本に落とされることになるのだが・・・。
 そんな議論の中、ボーアがかなりいい味を出してくる。
 1943年12月オッペンハイマーが原爆を開発しているロスアラモスにボーアが登場。これまで、いかにナチスドイツよりも早く作るか、だけが問題だったところ、ボーアの「それは十分に大きいかね?」という一言が「爆弾が戦後に及ぼす影響」という重要な問題に目を向けさせる。もちろんボーアはこれを伝えるために来たのだ(上P442)。ボーアまじすごひ。ここから議論はほとんどボーアの独壇場。
 ちなみにこのあたり、口外しちゃいけないと言われたことを、到着して5分で全部しゃべっちゃってる感じ可愛い(萌)。
 (上P447)このページに書いてあることはほぼかっこいいが、一部だけ
「戦後世界において各国は、潜在的な敵国が核兵器を持っていないことを確信する必要がある。これは、国際的な査察官がどんな軍事施設、産業コンビナートでも完全な立ち入りを認められ、新しい科学的発見に関する情報に完全なアクセスが認められる「開かれた世界」のみで可能である。」これを、戦争が終わる前にやらなければ。そして、いち早くソ連にマンハッタン計画を伝えるのだと。
 仮にこんなことが可能だったら、どうなっていたんだろう。もしは無理だし、スターリン相手でそんなことができるわけがないというのが、現代の色々な人の意見だとか。

 そして、上巻が終わりで、日本に原爆を落とす経緯を、下巻の初めで原爆が落とされる。このあたりは、別の本を参照すべきだろうけど。
 アメリカは対日本との戦争という意味では、日本に原爆を落とす必要はなかった(上P488)
・国防次官マックロイをはじめ、米国政府のトップグループは「おおむねワシントンの条件に沿って戦争を終結させよようと」日本がしていることを、傍受していた。
・トルーマンの首席補佐官ウィリアム・レーヒーは「降伏しなければ、恐らく破壊的な新兵器を使わざるを得ないだろう」と警告をすれば、おそらく戦争の終結をもたらすと予想していた。
・トルーマンはスターリンから、8月15日までに、対日宣戦布告をするという約束を引き出していた。どちらにしろ、日本は敗北していただろう。
 結局、なぜアメリカが日本に落としたのか。この本では明らかにはされていない。
 
 そして、原爆後、オッピーは、原爆の開発で大きな名声を手に入れ、発言力も大きくなる。その一方で、大きな罪の意識に襲われることになる。
 「もう一度大きな戦争が起こったら、原子爆弾が使われることを、すべてのアメリカ人が知っている」「われわれがこの理由を知っているのな、先年の戦争において、われわれが世界で最も開けていると信じたい二つの国、つまり英国と米国が、基本的に敗北している敵に対して原爆を使用したからである」(下P80)
 人が愚かであることが前提であれば、やはり巨大すぎる武器があるというのは恐怖以外のなにものでもないですな。
 オッピーはボーアの考えを踏襲し、核の力は国際管理すべきと発言していく。その一方でそれを嫌がる米国政府の一部や、FBI等(主にルイス・ストロース)にアカ狩りの標的とされていく・・・。
 オッピーは完全に社会的に抹殺され、その一方で、「50年でアメリカは5兆5000億ドルの予算を使い、7万個の核兵器を作った」(下P201)
 このストロースがオッピーらを止め、核の拡散を勧めてしまったが、この人後にやりすぎで信頼を失ってしまう。こんな人が世界の重要なかじ取りに影響を大きく与えるというのは、切ない気持ち。
 
 さてさて、この本の醍醐味は、オッピーが原爆後に元銀行家のルイス・ストロースにじわじわと追い詰められていくところである。
 オッピーは依然共産主義に傾倒していた時期があり、そのころの経歴からアカ狩りをされることになる。その関係で、かなり共産主義の考え方とかが出てくるので、右翼左翼のなんとなくのイメージができてきてそこは面白かった。
 例えば「開かれた社会、知識への制約のない接近、人間の進化のための非計画的、非拘束的交流、これらこそが広範で、複雑で、無限に成長し、無限に変化し、無限き専門化する優れた技術の世界、さらにはなお人間的コミュニティの世界をつくりあげる可能性を秘めています」(下P258)。こういう考えが俗にいう左翼なのかなと思いながら読んでいた。
 自分の思う左翼のイメージとずいぶん違うなと。
 
 あとは、その他ちょろっと
 考えていたのは、個人的にはオッピーのような天才でさえ、手前の事実に翻弄され、判断を誤ったり、先走ったりするんだなと。もちろん、正義感があればこそなのだけど。
 そして、事実だからこそ、正直者が救われると言い切れないし、オッピー自体も必ずしも善人でないところも、恐ろしくリアルで怖い。
 
(上P74)
 オッピーの大学時代はチョコレートとビールとアーティチョークだけのことも多かったとか。これは新海監督の「言の葉の庭」を思い出さずにはいられない。
(上P127)
 1927なので23歳くらいか、この時の恋敵ハウダーマンスが、オッピーと同じく文学にも詳しく、将来ドイツでの原爆開発をすることになるのだと。
(上P140)
 オッピーからの、異性が気になって勉強が手につかない弟(フランク)への手紙が中々よひ
「一緒にいるために、君の時間を消費させようとするのは、若い女性の職業みたいなもので、それを払いのけるのが君の職業だ」
デートというものは「浪費する時間のある人にとってのみ重要である。君や僕には重要ではない」
なおこれらは
「ぼく自身のエロチックな骨折りの成果であり、結果であるから」と(笑)
(上P173)これも明言やわ
「人は女性を心地よくさせることを目指すことはできない。それはちょうど、好みや、表現の美しさや、幸福を目指すことができないのと同じである。というのは、これらのことは、人が習得して達成できる特定の目的ではないからだ。これらは、その人の生活がまあまあ妥当であるか否かを説明したものである。幸せになろうとすることは、静かに動くという仕様しか持たない機械を作るようなものだ」
 
 こんなもんで。

EUの難民問題なう

 2015/9/23にググってみた内容

 難民問題ってのは、その国の考え方とかを嫌というほど見せ付けられる気がしますね。
 日本での難民認定数は2014年で11人。世界が数千人数万人で話をしているなか、かすみたいな数字ですが、これも、日本国民の他国の人へのセマーイ器量が反映されている気がする。私たちの国は、やっとの思いで岸までたどり着いた難民の方を蹴り飛ばしているわけですから。
 ちなみに、申請数が少ないとかそんなこともなく、2014年は5000人くらいの申請があったとか。受け入れ割合もドイツは40%オーバーとかなところ、日本はえーっと0.2%かな?(※2←これ見やすくていい資料満載)

 一方、ドイツって、なんとなく日本と似たような国と考えてしまっていたけど。
 ずいぶん難民に対しては正反対の考え方を持っているようですな。その理由は、一つには「誇れる国になりたい」もう一つは「移民を入れて国を維持しよう」。だと記事には書いてありました。世論の後押しがしっかりあるのが、ドイツすごい。

 自衛隊出して国際貢献するよりは、こーいう国際貢献にかね出して力使ったほうが幾分かましで。いやらしい話、いくぶんか見返りも大きい気がしますね。
 そりゃあ北朝鮮になんやかんやあって、一杯きたらまたじっくり考えないといけないのだろうけども。

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『Letters』宇多田ヒカル

11枚目シングル 「SAKURAドロップス/Letters」(2002/5/9)2曲目
3枚目アルバム「DEEP RIVER」(2002/6/19)5曲目
「宇多田ヒカルのうた 13組の音楽家による13の解釈について」で椎名林檎がカバー。
 たぶんかなり人気のある曲。

置き手紙 ~Letters~/銀花帳
↑こちらなんかは、過去の発言なんかからLettersのことを書いていて、より参考になる(なんのだ)。

 letter は名詞で
・手紙、書状
・文字、字、活字、字体
・文学、知識、学識、学問
 (a man of letters で作家とか文学者の意味らしい)
という意味だとか。

 たくさんの置手紙かなと思うけど。一通の手紙に書いてある複数の文字、を意味していると思うと、なんか手紙への愛おしさが半端ねえ感じになりますな。

 はじまりはアコギで

 暖かい砂の上を歩き出すよ…

 さみしい曲だけど、マラカス的なシャカシャカ音に、ポコポコ南国風の太鼓音が鳴っていて。
 ここに、暖かい砂の上を歩くという始めの一節で、なんか生活のゆとりは非常に感じる。
 林檎先生のバージョンでは、ピアノ中心に低めの音でしっとりしているけど、やはりマラカスは欠かさずに。
 宇多田バージョンが朝の浜辺なら、林檎バージョンは夜の浜辺だろう。

 手紙って好きだし、手紙を主題とした曲も好き。
 手紙が内包する、片思いとか、物理的な距離と心理的な距離の差とか、そーいうのが面白いんだろうね。
 最初に好きになった小説「錦繍」(宮本輝)も、手紙のやりとりだけだったな。
 でも、この曲は置手紙。家族か恋人くらいしか、置手紙なんてないだろう。とても近しい人とのやり取りなんだろう。

 南国で、置手紙を見て、寂しさを歌う。
 もうこれだけで、この曲は完璧だと思うワナ。

 驚くほど「ああ」「あー」言う(笑)歌詞カード的には18回。
 「ああ 両手に空を 胸に嵐を」言ってる人は完全に演劇だ。

 宇多田には名曲「BLUE」という曲があり、悲しみを歌いながら、
 ふと我に返って「ブルーになってみただけ」と歌うけど。
 Lettersの主人公氏も、悲劇のヒロインぶってみているのだろうという気がする。

今日選んだアミダくじの線が
どこに続くかは分からない
怠け者な私が毎日働く理由

 

 このフレーズがめちゃんこ好き。

 驚くほど現実を生きようという気持ちが入るところが
 こーいう(あえて)女々しい曲でも、
 カッコよさを感じたり、甘えきってない強さによって、
 安心して共感できる。

 歌詞の
 一番では「海辺」に置手紙
 海辺に置手紙というのはさすがに比喩だろうね。外国、異世界、へと、仕事とかかな。
いってくるという置手紙だろうか。
 二番では「窓辺」に置手紙
 悲しい知らせの届かない海辺から。悲しい知らせの届く家に入っちゃったかな。
 家と外との境目はなんだろう。家から出ていく。これは、それこそ離婚とか死を連想させるね。
「必ず還るよ」じゃなくてよかった(ヲイ)

Tell me that you’ll never ever leave me
Then you go ahead and leave me
What the hell is going on
Tell me that you really really love me
Then you go ahead and leave me
How the hell do I go on…

 最後の英語フレーズ。
 英語は本音をストレートに書いてしまうんだろうなー。
 これはどう訳すんだろう。以下は気分訳。

Tell me that you’ll never ever leave me
決して私を置いていかないといって…

Then you go ahead and leave me
しかし、あなたは行ってしまう。私を置いて
(then をしかしでいいのか?)

What the hell is going on
もうどうなったていいさ。

Tell me that you really really love me
私のことを本当に本当に愛しているといって…

Then you go ahead and leave me
しかし、あなたは行ってしまう。私を置いて

How the hell do I go on..
どうやっていけばいいのさ

 最後のフレーズを言い終わるかどうかで、この曲はフェードアウトしていく。
 相手はそこにいないのだから、この叫びは届かない。いや、届かないからこそ叫べるのだろうけど。

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SF『アド・バード』椎名誠

 みんな大好き?椎名誠。
 ウィキさんからあらすじをいただくとこんな感じ。

二十一市に住む青年、安東マサルとその弟菊丸は、行方不明となった父が生きていることを知り、マザーK市への旅へ出る。世界はターターとオットマンの両陣営による改造生物を使った広告戦争の結果、荒廃しており、市外を一歩出たところには、何もかも分解して土に変えてしまう科学合成虫ヒゾムシ、鉄を食いつくすワナナキ、触手を持った動く絨毯のような赤舌、そして鳥文字を作ったり人語を話す広告用の鳥アド・バードといった、珍妙不可思議な生物たちがうごめく危険な時代だった。道中で出会ったキンジョーという名の生体アンドロイド(ズルー)と共に、兄弟はマザーK市へ向かう。
Wikipedia

 文末の解説によると1987年くらいから始まった連載のようで。
 ファミコンができたのが1983年。ちなみにディズニーが日本にできたのも1983年。なんとなく、こんな本の想像が生まれてきたという時代にも納得できるような。

 マザーK市は、気持ちの悪い広告や不出来なロボットに支配されていて、ホテルに泊まると、蛇口をひねっても、寝ても覚めても、そこらじゅうで宣伝広告。お金を払えば消えるには消えるが・・・。現代のネットはそんな感じだけど、どうか現実には来ないでほしい。
 外に出れば、虫が編隊を組んで文字を表し広告になったり、鳥が肩に止まって広告ワードを連呼したり、サルがシンバル叩きながら行進したり。でもって、その広告のための生物改造が行き過ぎて・・・。まーこれも、人の集まる都会では、そんな感じになってるっちゃなってるか。
 で、ひとしきり社会情勢を見学すると、急に物語が生き物の思考の中に寄り道したりもする。蚊喰いという生き物の思考に入って、宣伝用に動かすための電波に操られる様なんかを、書いてしまうのが面白く、なんというかお茶目なところ。

 基本、この物語はめちゃめちゃ怖い(SF自体が怖いものかもしれないけど)。完全な人間は序盤を除けば、基本マサルと菊丸だけで、他にコミュニケーションをとる相手は、ロボットやロボット化されてしまった人間ばかり。脳髄だけ取り出してロボットになっていたり・・・。それでも、マサルは少なくとも孤独を感じるような描写は少なく。それなりにロボットとの生活も楽しんでいるように見える。んー何って人間が自分しかいなくても、ロボット相手でも、満足してしまう可能性を提示されていること自体が怖い。そーいや、OSに恋するなんて映画も最近あった。そんなの、自分の脳みそ信じられなくなっちまう。

 椎名誠が想像を始めてから少なくとも30年から40年はたったわけだけど。この本ほど広告戦争は激しく進んではいないようで少し安心。そしてこれからも、それほど広告戦争は進まない感じもする。
 この本には広告に対する恐怖が描かれていて、30年前同様に、いま生きる私も広告派手になると嫌だなーと思っていて。思ったより世の中は良心を多少は保ちながら進んでいるかも。とも思ったのでした。いや違うか、こんな表だって広告していないだけで、裏から裏からこっそり洗脳されているのかも。現代は誠ちゃんが想像していたよりも、もっと怖い世界かもね。

フィクション『族長の秋』ガブリエル・ガルシア=マルケス

 最近男のマザコンの作品ばかり見ている気がする。書いてないけど「冷たい熱帯魚」とかもマザコン映画だった。ノンフィクションなりの怖さがかなりあったけど。
 この本もマザコン本だと思って読むとそうとしか思えなくなるので、できるだけ別の角度から(笑)
 まずもって訳がいいなあと思う。鼓直(つづみただし)さんという方の訳で、最初こそ舟をこぎながら読んでいたけど、中盤からは一気に読み進められた。

 精密検査の結果によれば、動脈はガラスも同然、腎臓には海岸の砂がたまっているし、心臓は愛の欠乏のためにひびが入っていた。
P347

 あえて抜き出そうとしてみると、こういう流れのいい文章とか。これは、かなり終盤で、エンディングに真っ逆さまに転がっていく最中のセリフ。ここまで民衆からの愛に飢えた独裁者としての流れを汲んで、なんとも面白い一文。

 全体の文章構成も非常に変わっていて、目次には
族長の旅・・・・・・・・・・・・5
解説・・・・・・中島京子 369
だけ。
 途中に章立てとかなく、しかも段落が代わることもほぼ無く、主語も「われわれ」となっていて、語り手がしれっと変わって場面転回がわかりにくい。ちなみに段落が変わるのは P64 P119 P171 P224 P289 の5回だけ(ミムラ調べ)。段落としては6段落ですね。
 携帯小説の作家が読んだらびっくりするに違いない。そうでなくてもびっくりするのに。
 あとがきで知ったけども、ノーベル文学賞の受賞者だそうで。
 ひとつは無駄を省いたのだろうし、ひとつには、全体として一つの物語という意識があるのではなかろうか。彼なりに愛を手に入れられそうなところもあったり、悪政も善政もあったり、そんな中で彼の大統領としての人生が一つにまとまっちょるんだなと。

 物語としては、愛に飢えた独裁者のかなり長い大統領生活を綴ったもの。虐殺もレイプも好き放題やりまくる独裁者。文字が読めないほど学がない設定なので、政治色が強まりそうな大統領の物語にしては内容としても超平易。
 で、読んでいけば読んでいくほど、なんとなーくこの大統領に親近感が沸いてくる。そりゃあそうで、この大統領、大統領に留まっていられる原因は「勘が鋭い」だけで、あとやる事は愛されたくてやることばっかりなので。

 作者のガボさんは、コロンビアに生まれ、キューバにも住み、カストロさんとも仲良くしていたとか。
 彼にとって見える独裁者はこんなもんだったのかもしれない。
 自分なんかは、独裁者は、彼らは彼らなりの「正義」があるもんだと勝手に思い、「人間としては」擁護する気になったりもするけど。ちょっとイメージと違うなあというものを見させられて、若干のカルチャーショック。

 最後のほうで

結局、喜劇的な専制君主は、どちら側がこの生の裏であり、表であるのか、ついに知ることはなかったのだ。
P364

となる。
 ガボさんは独裁者を、独裁者としてというよりは、現実の「生」から目をそらした悲しい人間だと切り捨ててしまったんだなあと。身近で独裁を見た人の視野というものを味あわせてもらった気がする。
 ひっじょーに名作だとおもふ。また読もう。

 自分が思っているよりも、もっともっともっと世の中は単純かも知れんなー。

『ロートレック荘事件』筒井康隆

 どーも最近惹かれるのがこういう変な作家バカリで、刺激が足りていないのかもと思う今日この頃。昔はもっとほのぼの系を好んで読んでいたはずなのだがっ。

 期待に違わず、身体障害者を中心に据えた、変わったミステリー。ミステリーと言っても、ミステリーを使って、読者のみっともない思想をあらわにさせようという、あのおっさんのニヒルな笑いが見えそうな作品。
 本の中には、お屋敷に飾られているというロートレックの絵もカラーで掲載されていて、ちょっとした美術館気分も味わえる。

 いっちゃん最後の主人公の言葉なんてのは、かなりのカス人間ぶりが、結構心に響いたりして。これにガチで感想を書き始めると、結構精神的どツボにはまってきそうなので、とりあえず安心して誰かと話をする時まで自主規制(笑)

『食道楽』村井弦斎

 一冊読み終えて感想書くと、感じ入ったポイントとか忘れてしまうので(ヲイ)、ちまちま書く方向に方針転換。

書画や骨董の鑑定に長じて千年以前の物も立ちどころに真偽を弁ずると威張る人が毎日上海玉子の腐りかかったのを食べさせられても平気でいる世の中だもの。古い書画を鑑定する智識と毎日の食物を鑑定する智識といずれが人生に必用だろう、世の中の事は多く本末軽重を誤っているからおかしい。
上巻P121

 明治村のコロツケの作り方が、明治発刊の食道楽という本に書いてあるというので、ちまちま読んでおるわけで。
 この文章、実に明治の空気が出ている感じがしやしませんかと。外部から入ってくる知識に貪欲で、活力のある時代。

 ちなみにこのあたりは、卵について熱く語られている所で、美味しくて新鮮な卵の見分け方が書いてある。(明治の情報ですよ!)
1.殻がテラテラ光らない卵がいい
  少しも光沢のないちょうど胡粉を薄く塗ったようなものが新しい。古くなると胡粉のようなものが取れてくる。
2.薄い赤の卵より白の卵がいい
 薄赤い卵は肉用の鳥、白い卵は産卵用の鳥
3.受精した卵よりも受精しない卵が、味も日持ちもいい
 交尾しなくても鶏は卵を産むそうです。が、雄がいないと、雌の気がたってくるようで、雄がいて、なお受精していない卵が上等だそうです。受精しているかどうかは、割ってみるとわかる。黄身の上に小さな線がありこれが胎盤で、それにカラザが繋がっていたら、受精している。繋がっていない場合は受精していないんだそうだ。

 粉のところ意外は現代には役にたたない気もするが。

『沈黙』遠藤周作

 前回読んだ『深い河』は1993年の作品、今回読んだ『沈黙』は1966年の作品だそうで。
 ネタバレ上等。

 島原の乱の後、カトリック弾圧の治まらない日本。そこへ手助けにポルトガルからロドリゴ神父が訪れる。しかしドンドン周りの信者が捕まっていき拷問され、神父はそれを無力に目の当たりにさせられ、何もせず沈黙したままのキリストに対しての心が揺らいでいく・・・。
 つらいよー。ごっつつらいよー。

 やっぱりカトリックは良く出来ているなと

 日本人の百姓たちは私を通して何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てるひとすじの路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等を牛のように扱う者たちの味方でした。長い間、彼等はこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。(P53)

 引用したことで仏教を批判したいわけではありませんです。ただ、この神父は信者の懺悔を日々聞いたり、洗礼を与えたり、非常に信者と距離が近いなと感じたわけです。
 良くも悪くも、人はそれにすがりたくなるだろうし、弱者のための宗教としては非常に効果絶大なのだろうなと。そして実際に、厳しい年貢の取立てに苦しむ当時の百姓も頼っていったのだと。
 でもって、為政者が弱者が集うこの宗教を弾圧したくなるのもまあ、わかりますわな。

 ところでこの小説はキチジローという、コミカルで卑怯な弱虫が非常にいい味を出しているわけで。キチジローは脅されるとあっさり踏絵を踏むし、神父を幕府に告げ口して自分だけ助かろうとする。それでも信徒で、最後まで神父に懺悔させてくれと、懇願する。
 一方、踏み絵も踏まず神を信じ続けた人たちは、拷問など似合い殉教していく。さー、沈黙を貫く神が悪いのか、キチジローが悪いのか。

 結果的には、遠藤周作の小説の中の神は、他の信者の苦しみを救うため、まさに踏絵を踏もうとしている神父に向かって声をかける。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前達に踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。(P219)

 遠藤周作の神はやっぱり日本人の神なんだろうか。wikiなんかによれば、この結末のせいでノーベル文学賞をとり損ねたとか。次の言葉がなんとなくずっしり来るのです。

「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。」(P192)

 なんつーのか、この小説に描かれるカトリックは、どうしても行き場を失った人たちが寄り添う宗教として扱われているわけです。そこの神の概念をもてないというのは、「貧乏は努力不足」という議論と近いようなものを感じないでもないというか。勤勉というか、頭が固いというか。
 そう、キチジローの居場所はどこなんだろうねと。

『葉桜の季節に君を想うということ』歌野晶午

 とてもミステリー?としてよく出来た本だった。まさに読み直したくなるような。いや、自分はミステリーは元来得意ではないので、参考にはなりませんが、素人には読みやすいという程度に。

 ベースは蓬莱倶楽部という健康食品やら高級布団を売りつける会社。だまされた人、だます人、そして調査する主人公。ごちゃごちゃと、面倒なストーリーが上手く絡み合っていく。そして、「だあああああああああああ!」と叫んでしまうようなネタが仕込まれている。
 作者が、この作品に盛り込んだメッセージも好きだし、タイトルも中々好きだし。

 ちなみに理系の方のようで。結構緻密にくみ上げられてるなーと。まあ、故にやっぱり各人の人間らしさは、作者の中にイメージはありつつも、文面としては多少端折られているような気もするような。もっと人間楽しみたいなー。

 これはネタバレしながらゆっくり人と話したい。

『痴人の愛』谷崎潤一郎

 裏書には「知性も性に対する倫理観もない”ナオミ”は日本の妖婦の代名詞となった。」と書いてある。
 漢字で書くと奈緒美だが、ナオミと表記したほうが雰囲気が出るからと文中は常にカタカナ表記。大正時代、日本が嬉々として西洋化していく様を批判したかったとのことで。

「ああ、勉強おし、勉強おし、もう直ぐピアノも買って上げるから。そうして西洋人の前へでても恥かしくないようなレディーにおなり、お前ならきっとなれるから。(P55)」

とまあこんな感じで。譲治という西洋にあこがれるおっさんのものがたり。
 以下ネタバレきにしませんので。

 譲治は、見合いみたいに、一度や二度会っただけで一生の伴侶なんかきめられるかい。それなら、ナオミちゃんのような15歳くらいの女の子を引き取って、その成長を見届けてから、気に入ったら妻にもらおう。別に、財産家の娘だとか、教育のある偉い女が欲しいわけではない。とかなんとか。
 ちょいと理想が過ぎる恋愛主義か。実際ナオミは、15歳でキャバレーに勤務していて、家は風俗街の中。財産もなく教育も無いワケアリ家庭。
 パトロンを得たナオミは、英会話習ったり、ダンスをならったり、服を買い漁ったり、結構序盤から我がままっぷりを発揮し育っていく。手を焼くだけならともかく、心も焦がし譲治さんはナオミちゃん、主に肉体、にがっつりやられて、浮気されてもどんなことをされても、盲目的にしたがっていく・・・。

 確かに読んでいると、この大正時代末期に急速に日本の文化に西洋の文化が割り入ってきて、色んな道徳的なものが見えなくなってきたのかなと言うのはビンビン伝わってくる。
 譲治はナオミに英会話なんかをやらせるけれど、結局それは日本的な花嫁修業の域をでないのであって、この小説の中ではナオミが外人と仲良くなる手助けをしたに過ぎない。今、谷崎ちゃんが似たような小説を書けば、ナオミちゃんは海外を飛び回るスーパーガールになって、譲治は家でぶうたれるニートになっているかも(笑)。

 日本の文化と西洋の文化の悪いところを凝結させたのが、ナオミなんだろうなという感じがする。現実の世界は、小説の冒頭であった「今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も追い追い諸方に生じるだろうと思われますから」てなことにはならなかったね。
 正直、まったく貞操概念の無い女の物語は、イライラして仕方がなかったですはい。