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『深い河』遠藤周作

 久しぶりにひっそり更新。相変わらず書いた内容は支離滅裂…。
 ふと「Deep River」と言う曲は、この遠藤周作の「深い河」からインスピレーションを受けているのだと知り、色々思うところもあり、手に入れた本でした。

 まーこのブログも書かない数ヶ月。いろんなことありましたわー。うーん。経験と言うのはつまねばならんね。ほんま。まだあと80年は経験積まないといかんわ。

 インドツアーが催され、そのツアー中に複数の主人公がいる。
 宗教を考えたこともないのに妻の死をきっかけに転生と向き合わされた人だったり、自分が臨死体験をして代わりに死んでくれた(と思っている)鳥に感謝するためにインドに来ていたり、色々なそれぞれの死生観を絡めての葛藤が面白い。宗教に肉欲も絡み、非常に純粋なお父さんの奥さんへの愛とか、動物への愛とか、戦争のPTSD的なものとか、色々ごちゃごちゃしているけれども、そのおかげで飽きさせず非常に読みやすくて面白い本でしたよ。今の自分の境遇とかにも色々重ね合わせられる面もあったりして。

以下特に支離滅裂。

 個人的にはその中でも大津という日本で育ったカトリック教徒が神父になるにあたっての日本人らしい葛藤がとても面白かった。

(P191)神学校のなかでぼくが、一番、批判を受けたのは、ぼくの無意識に潜んでいる、彼等から見て汎神的な感覚でした。日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります。よく見ればなずな花咲く垣根かな、は、ここの人たちには遂に理解できないのでしょう。もちろん時にはなずなの花を咲かせる命と人間の命とを同一視する口ぶりをしまうが、決してその二つを同じとは思っていないのです。

 遠藤周作その人がカトリック教徒のようで、本人の叫びそのものじゃないのかという大津の言葉が色んなところにちりばめられている。
 と、そんな真面目な大津を、美津子と言う女性がバカみたいと、教会に行かずに私の家に来なさい。と、神から大津を寝取ってしまう。そして、美津子は神を玉ねぎと呼び、大津を批判する。結局大津は、美津子に捨てられ玉ねぎの元へ戻っていくのですが、玉ねぎも気まぐれで、大津をツアーの行き先インドへと。そして美津子は大津に会いにインドに来てしまった。
 結局振り回されているのは、美津子なのだけど、大津の姿勢もさることながら、美津子がおっかなびっくりで宗教に触れている感じが、日本人なら共感できるに違いないと思ったり。

 また史実が挿入されていて、インディラ・ガンディー首相が暗殺されるという事件がツアー中に発生する。支持を集めていた首相が殺され、市民の気は立ち町は異様な雰囲気に包まれる。ここから、大変厳しい結末への引き金となっていくのだけれども、非常に色々な捉え方のできる史実を入れてくるのは中々面白いなと思ったり。

 そして、色んな背景の主人公がガンジス河で色々な面で抱えていた悩みから色々な手段で解き放たれていくのだけど、舞台としてガンジス河というのが面白いのですなあ。ガンジス河は人が死ぬために集う河。ガンジス河に自分の亡骸の灰が流されると、転生してよりよい生まれ変わりができるのだと。特に、カーストの厳しい国なのでよりその願望が強く、ヒンズー教とも相性が良かったと。その平素から死を迎え入れる河だからこそ、貧困に耐えやっと死ぬことが出来る人が集まる河だからこそ。
 やっぱりガンジス河は生で見てみたい気がしてくるなあ。多分、悲しみを味わいに行くところなのだろう。

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原罪と追放、エデンの東⇒『アダムとイヴ』岡田温司

 コメントもめっきりなくなったこのブログですが、そらそうだわな。
 本の気になったところの要約するだけなら、あまりにも意味がない。多少は自分の知識やら考えを入れないとなー。などと思いつつ。アダムとイヴの続き。
 この本は四章構成です。
第一章 人間の創造
第二章 エデンの園
第三章 原罪と追放
第四章 エデンの東
 後半3章と4章、禁断の果実を食べて、追い出されて、そこで兄弟殺ししてさらいエデンの東に追い込まれると。
 テキストとしては、ひっじょーに短いのに、これだけの影響を後世に与えてしまうというのは…この解釈一つで戦争までおきるんだから。
 まーでも旧約聖書ってのは、良い面では人のあるべき姿とか、科学とかの、たたき台にはなったのかもしれないなと。「旧約聖書に書いてあることが正しい。」という前提があったからこそ、それに対する批判も生まれ、善悪の議論もできるわけで。
 個人的には、アダムとイヴはBonnie and Clydeみたいな、危険だけどなんとも言えない魅力も感じるなあ。まー失楽園だとかまさにそーいうのを感じた作品もあるわけだろうけれども。

第三章 原罪と追放

 イヴとアダムが禁断の果実を食べてしまうことについては、ポジティブなものとネガティブなものがあるそうです。つまり、残されている絵を見れば、愉快そうに追放される絵と、いかにも悲観しながら追放される絵があるそうな。
 前者は尾崎豊タイプで、後者は調子にのりすぎて店から追い出される客とか。

創世記 3
1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
聖書(新約聖書・旧約聖書)←ここより拝借

 なるほど、木の実を食べることによって、恥を善悪を知るものになることができたわけで。と思えば、未だにエデンの園にいるのではないかというような方もおられますねえ。

 この禁断の果実騒動をめぐっては、この著者曰く、旧約聖書内でも、イエスがいうにも、禁を破って果実を食べたイブやアダムは責めてはいないそうんな。
 このアダムとイヴが責められるようになったのはパウロのローマ人への手紙からだとか。曰く「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた(5.12)」「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた(5.18)」「ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた(5.19)」と、アダムをぼろ糞に言った上で、イエス・キリストを持ち上げているのでありました。
 ここにパウロさんが、ユダヤ教からキリスト教へと人の心を動かす苦心が見えるわけですなあ。

 この禁断の果実を食べることがよかったのか悪かったのか。これは、イヴの評価、ひいてはアダムとイヴを根拠にした性差別にも繋がっていくわけですね。最初に誘いに応じたイヴは罪深いとも言えるし、人に知恵を与えるきっかけを作ったともいえる。
 ただ、やはりここでパウロは「またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。(テモテへの手紙一2.14)」と…しかしこのテモテへの手紙の他のところも女性蔑視プリはひどいな。

 ところでこの原罪、色々議論は飛躍するもので、

  • ルソー:私有財産制こそが、いわば罪の原点である。この不正をただすことができるのは、「社会契約」にもとづく民主主義によってであり、教育に求められるのは、人間本来の「自然状態」を可服することである。(P125)
  • カント:原罪を、人間の進歩―動物性から人間性へ、本能から理性へ、自然から自由へ―として積極的に評価しようとる。(P125)
  • ヘーゲル:原罪こそが人間を人間たらしめるものだ。善悪を識別できる知恵の木の実を食べたために、絶対の満足を得られなくなる。罪はもっぱら認識にあって、人間は認識のはたらきによってうまれながらの幸福をうしなってしまう。(P127)
  • キルケゴール:原罪の本質とは、無限の選択の可能性を前にした人間の自由の不安のことにほかならない。(P128)
  • ニーチェ:人類の犯すより抜きの自己汚辱(P128)

 しかしながら、善悪の知恵こそが原罪というのはよく考えられているよなと思う。

第四章 エデンの東

 創世記は四章に入ると、イヴは追い出されたた先で、兄カイン(農耕)と弟アベル(羊飼)を生み、アダムとイヴの物語から離れる。
 カインは土の実りを、アベルは羊の初子を供え物として神の差し出すも、神はアベルのものしか受け取らない。で、兄は怒って弟を殺してしまう。これが人間の第二の大罪だと。
 そして、カインは耕していた大地からも追われて、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んで、「街を建てた」のでした。
 これすなわち、旧約聖書で初めて人が街を建てたことになるようで。罪に感謝ですな。なお、ユダヤの伝統では、このカインの罪こそがノアの大洪水の元凶とも言われるとか。

 なぜカインの差し出し物はとらなかったのかのヒントとして
カインと言う名前は「所有」という意味
アベルは「神に(すべてを)もたらすもの」という意味
があるそうな(P167)。
 ルソーが「私有財産制こそが原罪だ!」って言っているのは、土地を保有し果実だけをもたらそうとしたカインとのからみだったりするんだろうか。

 さてと。進化論を前提とする世界に帰りましょうか。

アダムとイヴ、エデンの園⇒『アダムとイヴ』岡田温司

 挿絵が楽しそうなので、衝動買いしてしまった一冊。世界で最も有名なカップル「アダムとイヴ」。この2人がどう歴史的に、また、画や彫刻を持って美術的に解釈されてきたのか。
 結構面白くて、

  • アダムは両性具有じゃないと話が成り立たない?
  • リンゴを食べたことは人間にとって良かったのか悪かったのか?
  • 「エデンの園」はどこにある?
  • アダムとキリストの関係は?
  • 一角獣の起源は誤訳・・・

 いろいろ興味深い話題を提供してくれます。
 でもって、こういったそれぞれの自分勝手な解釈を見ながら、「あいまいな表現を自分の「理屈」に当てはまるように解釈する歴史」こそが宗教そのものなんやなと。そのある意味での滑稽さを楽しむには最適やなと。まーもうちょっと賢そうに言うなら、その時代の要請を移す鏡なんでしょうなと。

 と以下だらだらと書くつもりだけれども、その前にエヴァンゲリオンの話に。
 エヴァンゲリオンが旧約聖書的な用語を持ってくるのは、「人間特有の悩み」を描く中で、一つの答えとして「じゃあ、人間が生まれる前の世界に戻るか」という提示をするための道具に過ぎないんってことなんじゃないかと。だから物語での用語の使い方自体には象徴的な意味しかもたないと。
 それをエヴァのファンが厳密な意味や歴史的な解釈と関連付けさせようとしている様は、まさに宗教ができる瞬間ではないかと、面白いかも。

 以下備忘録的に、章立てに沿って特に興味深かったところだけ。
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『旧約聖書』God~ヨブ記~

 やっと聖書も中間地点。ここにきてヨブ記は面白かった。
 ここまで「神は怖いんだぞ!黙って信じていろ!」ってな雰囲気でつまらないなあと思っていたが、ここで急に変わってきた。

ヨブという神を畏れる無垢な素晴らしい富豪がおりました。
ある日神の所にサタンが来ました。
サタン「あいつは財産あるし健康体だからあんたを敬ってるんだよ」
神「ふーん。じゃあ好きなようにやってみていいよ」
ヨブは財産略奪、皮膚病に侵され激しい苦痛に
ヨブは最初は神を敬うも、神への愚痴モードに
友人が何人か来てヨブの愚痴を諫めるも、ヨブを説得できず
最後には神様が出てきて「ざけんな。俺がてめえ作ってやったんだぞ。」
ヨブ「ははあ、お代官様」
神「いいよ!ヨブは許してあげる!友人は正しいことを言わなかったからゆるさん」
ヨブはまた富豪になって幸せに暮らしましたとさ。
という素晴らしい物語。

 この中で何よりも面白のは神への愚痴。
 神を信じてコツコツ生きてきたのに、突然の仕打ち。長男一家は殺され、財産を奪われ、重い病に侵されてトコトン悲観にくれます。

なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか。
せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。
ヨブ記3章11

もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。
ほうっておいてください
わたしの一生は空しいのです。
ヨブ記7章16

 そりゃあこうなるよ。
 そして神の存在自体に文句を言い始めます。

なぜ、神に逆らう者が生き永らえ
年を重ねてなお、力を増し加えるのか。
ヨブ記21章7

神に逆らう者の灯が消され、災いが襲い
神が怒って破滅を下したことが何度あろうか。
藁のように風に吹き散らされ
もみ殻のように突風に吹き飛ばされたことがあろうか。
神は彼への罰をその子らの代にまで延ばしておられるのか。
彼自身を罰して思い知らせてくださればよいのに
ヨブ記21章17-19

 他にも、正に現代人としても神に一言申したいこと満載。

 ところで、神に文句たれたヨブは最終的に神に再び認めて貰い。友人は神のために議論したのに、なぜか神に罰せられる。。
 このことについてこんな記述を見つけたわけで、

この、結びの章すべてに見られるこれら律法無視や過剰な応報は、モーセ律法の応報主義のパロディ、痛烈な批判でなくて、何でしょう。
63.ヨブ記Ⅲ(モーセ律法のパロディ)より

 ヨブ記は、旧約聖書自体を批判していると言うではありませぬか!そもそも聖書はそれぞれ作者が違っていて、内容もそれぞれとなっているわけです。その中に1人くらいこっそり批判が入っていてもいいのかもしれない。
 もちろん表向きは、「結局神は畏れるべきなのだ」という結論に持っていけるようにも読める。しかし、そんなに薄っぺらい批判じゃなく、批判に対する批判も様になっていない。

 旧約聖書への批判だという根拠として
・旧約聖書においては寿命は120歳とされているのに、ヨブは140歳まで生きたとされている。
・女性は相続権にもかかわらず、ヨブの娘は相続権を得ている。
 このような点から、ヨブ記は聖書自体への痛烈な批判という位置づけなのではないかと。
 そう思って読むと全然面白い。やっと聖書が面白いという意味が分かってきた。

詳しくは江礼宮夫さんという方の解説
61.ヨブ記Ⅰ(律法者ヨブの絶望と癒し)
62.ヨブ記Ⅱ(カウンセリングの逐語録)
63.ヨブ記Ⅲ(モーセ律法のパロディ)