チベット問題


 『ダライ・ラマ自伝』という本を読みました。
 さすが講演を世界中で数多くこなしているだけあって、笑いあり涙ありで面白く読めます。チベット仏教の考え方や、チベットの不可思議な文化、その時々に出会った人の人物像や見た目等も面白おかしく書いてあり面白い。
 しかし中盤からは、完全にトーンも代わり、チベット人に対して行われた残虐な拷問などの内容も記載されており、読むこと自体が辛くなってくる。

 ここにも、本文より引用すれば拷問等の相当刺激的な文もあるけれど、現在はそこまでひどい拷問はさすがにされていないようだし(外国人が観光に来たりしている中でそれはできないだろう)、中国批判をしたいわけでもないので、引用はしない。
 もし興味があれば、拷問については「人権問題 – ダライ・ラマ法王日本代表部事務所」に色々書いてある。これはチベット側の主張だし原文も英語で検証もできないので、真意の程は私にはわからない。
 しかし、色々な意見を読んで、チベットが独立国であることを否定する論評はあっても、中国が過度の人権侵害を行っていることを否定しているようなモノはほとんどない。

ちなみにチベット問題について、なんぼか検索したところだと
チベットをすてたイギリス – 田中宇
北京五輪チベット騒動の深層 – 田中宇
チベット問題の歴史淵源 – オカメインコの森
国外勢力がいかにチベット独立を画策してきたか – 人民日報
⇒人民日報は中国側の意見として

 もしよければ一読してみてください。
 尚、この記事のタイトルを本の題名にしていない理由は、以下にこの本以外の事も書こうと思ったからです。以下チベット問題の簡単な自己満足概略。

シムラ協定

 チベット問題は「シムラ協定(1913年)」というところから始まる。
 シムラ協定について

(前略)英領インド(つまり英国政府)・中国・チベットの3者で、それぞれの間の国境を策定するシムラ会議を開いた。英国が出した草案が、チベットに対する中国の宗主権(チベットの主権の一部である外交権などを中国が持つこと)を認めていたため、中国は代表を派遣した。
 会議では、英国が国境線の草案を出したが、中国は了承せず、決裂した。だが英国とチベットの代表は「中国が一方的に草案を拒否したのが悪い」という姿勢で一致し、英国とチベットの2者のみで1914年7月、英国草案を「シムラ協定」として締結した。さらに、追加文書として「中国がこの協定文に署名しない限り、中国は、この協定に盛り込まれた一切の権利(中国がチベットに対する宗主権を持っていることを含む)を持てない」とする宣言も作った。英国は「宗主権を認めるから」という甘言で中国を誘ってシムラ会議を開いた(中国が同席したのでロシアは反対できない)が、中国が飲めない国境線案を出して、中国を署名拒否・退席に誘導し、中国が帰った後、チベットと英国の間で「(署名しない限り)中国の宗主権を認めない」とする追加宣言を出し、英国が中国を無視してチベットとの国家関係を拡大できる状況を作った。(チベットをすてたイギリス – 田中宇

 このシムラ協定を根拠に、チベット側の文章には「独立した」という。
 しかし、冷静なコメントの多くは、シムラ協定を根拠に「独立国」というには横暴だと考えている人の方が多そうだ。

ダライ・ラマ14世

 このシムラ協定から22年。
 1935年7月6日。ダライ・ラマ14世誕生。現在は75才かな。3才の時に、「お告げ」により先代の化身であると発見され、育てられる。
 1950年10月11日。中国人民解放軍が文字通り「KAIHOUしてあげまーす!」ってな名目で東チベット侵入。15才のこのとき(通常より2年繰り上げて)にダライ・ラマはチベットにおける政治上の全権利を引き継ぐ。ここから徐々に中国がチベットへの介入を始める。
 この中国人民解放軍って、なんとなくペリー来航を思わせる。鎖国状態で独自の文化を気づきあげてきた中に、異国が自己の利益をもくろみ、そして「アナタのメリットにもなりますよ」みたいな押しつけがましさを掲げて、力で威圧してくる。そしてボロボロに・・・。
 1956年。中国側がチベットの指導者のうち「民主改革」の導入に反対する人を集め監禁。その警備が緩んだ隙に逃げ出した人たちがゲリラとして活動を始める(米国が共産国の弱体化を狙って武器を供給したりもする)。ここから中国も軍を増やし、見せしめとしての陵辱拷問が始まる。
 1959年。ダライ・ラマが中国側に観劇に誘われる。コレを知ったラサ(ダライ・ラマのいるところ)市民がそれを止めるためにダライ・ラマのいる離宮を包囲しデモまで始めてしまった。ダライ・ラマの努力もあり、ラサだけは未だ中国軍から弾圧は受けていなかった。しかし、このままデモなどが続くと大変なことになる。

脱出だけが群衆を解散させる唯一の方法だとわたしは確信した。(P217)

と、亡命を決意し、こっそり亡命

 ここから先は、ダライ・ラマ氏の積極的な諸外国への働きかけにもかかわらず、中国側はこれをチベットを支配下におくために様々な、様々な、様々な・・・拷問をしたと言うことです。拷問、飢餓、自殺などによる死亡者は125万人(数字はダライ・ラマ自伝より)。
 現在は、チベットに大量の中国人を流し込み、チベット人の存在感を薄くしてやろう。という魂胆だそうです。

 チベットはそれ自体で一つの文化圏を形成し鎖国時代の日本のように、独自の文化を育ててきたように見えます。この話に拷問や陵辱という人権に関わる話が無かったとしても、一つの文化が外部文化の押しつけにより、消滅していくというのはかなり悲しいことです。ダライ・ラマ自伝では特に序盤でそのチベットの文化について結構詳しく語っており、この失われた文化を伝えることにもかなりの重きを置いています。

 最後に、これだけの残虐な事を人間ができるのかということに心底ビビリました。恐怖っておっかない。

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