『バーレスク(Burlesque)』

20140517Burlesque こーいう見るだけでストレス吹っ飛ぶような映画だいすきっすわ。ストーリーはありがちで、田舎娘がロスのクラブのTOPダンサーに上り詰めるサクセスストーリー。一方そのクラブは借金が払えずピンチ!どうやって店を救うんだ!
 アリ(クリスティーアギレラ師匠)はむっちゃ可愛いし、テス(マダムシェール)はむっちゃんこ魅力的やし。この2人の歌唱力をちょくちょく味わえるだけでかなり満足。

 この映画でオヤオヤすごいなと思ったのが、超序盤、アリが「この店はストリップですか?」と聞くと受付が「口に気をつけろ」ってな場面から始まる。プライドもって踊ってんだよって事だけど、この映画終始一貫して、みんな貞操観念がかなり強い。あくまでも性を売るわけじゃなくて、ダンスや歌を売るんやで!というプロ根性がこのクラブ、映画には終始流れていて、非常に見ていて気持ちがいい。

 あー検索してみる。マダムCherは、Believeの方なのね。いや、下記の映画内の中盤の曲のがいいぞ!私は負け犬ちゃうねん!私は立ち上がるねん!

『ロートレック荘事件』筒井康隆

 どーも最近惹かれるのがこういう変な作家バカリで、刺激が足りていないのかもと思う今日この頃。昔はもっとほのぼの系を好んで読んでいたはずなのだがっ。

 期待に違わず、身体障害者を中心に据えた、変わったミステリー。ミステリーと言っても、ミステリーを使って、読者のみっともない思想をあらわにさせようという、あのおっさんのニヒルな笑いが見えそうな作品。
 本の中には、お屋敷に飾られているというロートレックの絵もカラーで掲載されていて、ちょっとした美術館気分も味わえる。

 いっちゃん最後の主人公の言葉なんてのは、かなりのカス人間ぶりが、結構心に響いたりして。これにガチで感想を書き始めると、結構精神的どツボにはまってきそうなので、とりあえず安心して誰かと話をする時まで自主規制(笑)

『レオ・レオニ 絵本のしごと』刈谷市美術館

 刈谷市美術館の『レオ・レオニ 絵本のしごと』という美術展に行ってまいりました。
20140504leolopnni
 レオさんは、1910年オランダ生まれのユダヤ人グラフィックデザイナー。30才手前でユダヤ人であるためにイタリアからアメリカに亡命し、49歳の時に『あおくんときいろちゃん』で絵本デビュー。最初は電車で退屈する孫に、切り絵で物語を作って聞かせたところからだとか。

20140504leolopnni_peche どれも明確なメッセージ性のある作品ばかりで、周囲に溶け込みきれない気持ちや、自分には何か足りないんじゃないか、というような自意識つーか、自分をどう理解するか、といったところに訴えかけてくるような話が多い。最終的には、自己を肯定する術を教えてくれているようで、温かい気持ちになる。もしかしたら自分がずっと飢えていたものかも。
 でもって、さすがグラフィックデザイナー。色彩がとても美しい。そして、個人的に一番キタのは、背景への執着。絵本なので、画面内の情報はシンプルでも、地面や背景の植物は必ず変え、かき分けているのが印象的だった。
 抽象的ながら、よく地面や植物を表していて物質への愛を感じる(笑)

 印象に残っているレオさんのコメントが「単純なものを作れば読んだ人がそれぞれの人生に合わせて理解するので、単純に越したことはない」みたいなもの(正確に覚えとけよ)。この⇒のペツェッティーノに至っては、必要最低限の塊だけで物語が進んでいく。
 ねずみも数多く使われていて、個人的な印象だけど、子供が感情移入しやすい対象なんだとろう(小さくて、ちょろちょろしていて)。
 レオさんの本の多くを翻訳している谷川俊太郎先生が、レオさんの「意味が伝わらなきゃ意味がない」みたいな言葉に対して、「詩では勘弁してほしい」とコメントを寄せているのには笑ったけど、レオさんは、読む人に明確なメッセージを伝えないと意味がないと考えているようで。ちょっとユダヤの方っぽいなと勝手な偏見。

 そーそー彼は小さいころは、外で遊ぶというよりは、瓶の中に植物を入れ、箱庭的なものをつくっていたそうで。解説曰く統制可能な世界を好んだのだと。ちょっと説教臭くて、おせっかいな感じがとても気持ちのいいレオさんでした。

『食道楽』村井弦斎

 一冊読み終えて感想書くと、感じ入ったポイントとか忘れてしまうので(ヲイ)、ちまちま書く方向に方針転換。

書画や骨董の鑑定に長じて千年以前の物も立ちどころに真偽を弁ずると威張る人が毎日上海玉子の腐りかかったのを食べさせられても平気でいる世の中だもの。古い書画を鑑定する智識と毎日の食物を鑑定する智識といずれが人生に必用だろう、世の中の事は多く本末軽重を誤っているからおかしい。
上巻P121

 明治村のコロツケの作り方が、明治発刊の食道楽という本に書いてあるというので、ちまちま読んでおるわけで。
 この文章、実に明治の空気が出ている感じがしやしませんかと。外部から入ってくる知識に貪欲で、活力のある時代。

 ちなみにこのあたりは、卵について熱く語られている所で、美味しくて新鮮な卵の見分け方が書いてある。(明治の情報ですよ!)
1.殻がテラテラ光らない卵がいい
  少しも光沢のないちょうど胡粉を薄く塗ったようなものが新しい。古くなると胡粉のようなものが取れてくる。
2.薄い赤の卵より白の卵がいい
 薄赤い卵は肉用の鳥、白い卵は産卵用の鳥
3.受精した卵よりも受精しない卵が、味も日持ちもいい
 交尾しなくても鶏は卵を産むそうです。が、雄がいないと、雌の気がたってくるようで、雄がいて、なお受精していない卵が上等だそうです。受精しているかどうかは、割ってみるとわかる。黄身の上に小さな線がありこれが胎盤で、それにカラザが繋がっていたら、受精している。繋がっていない場合は受精していないんだそうだ。

 粉のところ意外は現代には役にたたない気もするが。

『憎念』谷崎潤一郎

 谷崎先生のフェティシズム小説集を読んでいるのでちまちまと。

 私は「憎み」という感情が大好きです。「憎み」ぐらい徹底した、生一本な、気持ちのいい感情はないと思います。人を憎むという事は、人を憎んで憎み通すという事は、ほんとうに愉快なものです。
憎念(フェティシズム小説集)/谷崎潤一郎

 谷崎師匠のこの痛快感はなんでしょうな(笑)
 一緒に入っている「悪魔」という小説。エンディングが半端ない。男子が女子のリコーダー云々という話で、顔をしかめてしまう人が読んだら、間違いなくおう吐する。

「顔」に魅せられた男~特殊メイクアーティスト・辻一弘の挑戦~

「顔」に魅せられた男~特殊メイクアーティスト・辻一弘の挑戦~

0412_04b 特殊メイクアーティストの辻一弘さんのドキュメンタリー録画してみてみた。
 辻さんは京都の錦市場で育ち、小さなコミュニティーで本音と建前を使い分けるオトナたちを目の当たりにし、表情の変化に興味を持ったのだとか。両親が中学生で離婚し、その後にも両親の喧嘩をまのあたりにしていたとか。
 京都の市場育ちといえば、愛する伊藤若冲氏。彼も市場の人間として育ちも、商売にはあまりのめりこめず、店を譲って絵の道に。彼の描く植物は必ず虫食ってるし、鳥も若干あほらしい顔している。
 人の顔色を見て育った気持ちが何となくわかる。とかいうと怒られるな(笑)ただ、観察力がすごいだけじゃなく、観察に意味があるんやなと。
 ところで、こーいうメイクとかに使う血管が、植物の毛とかを使うのだけど、生き物の神秘を感じるなー。血管も毛も植物も進化の中で出来てきて、できは恐ろしいほど似ているような面があったり。
 そうそう、作品中ではアンディー・ウォーホルというアーティストを描く。彼のコンプレックスを最大限に強調していく感じがたまらんわー。
 映画作りはイヤになったらしい(笑)

『沈黙』遠藤周作

 前回読んだ『深い河』は1993年の作品、今回読んだ『沈黙』は1966年の作品だそうで。
 ネタバレ上等。

 島原の乱の後、カトリック弾圧の治まらない日本。そこへ手助けにポルトガルからロドリゴ神父が訪れる。しかしドンドン周りの信者が捕まっていき拷問され、神父はそれを無力に目の当たりにさせられ、何もせず沈黙したままのキリストに対しての心が揺らいでいく・・・。
 つらいよー。ごっつつらいよー。

 やっぱりカトリックは良く出来ているなと

 日本人の百姓たちは私を通して何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめてその足枷を棄てるひとすじの路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等を牛のように扱う者たちの味方でした。長い間、彼等はこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。(P53)

 引用したことで仏教を批判したいわけではありませんです。ただ、この神父は信者の懺悔を日々聞いたり、洗礼を与えたり、非常に信者と距離が近いなと感じたわけです。
 良くも悪くも、人はそれにすがりたくなるだろうし、弱者のための宗教としては非常に効果絶大なのだろうなと。そして実際に、厳しい年貢の取立てに苦しむ当時の百姓も頼っていったのだと。
 でもって、為政者が弱者が集うこの宗教を弾圧したくなるのもまあ、わかりますわな。

 ところでこの小説はキチジローという、コミカルで卑怯な弱虫が非常にいい味を出しているわけで。キチジローは脅されるとあっさり踏絵を踏むし、神父を幕府に告げ口して自分だけ助かろうとする。それでも信徒で、最後まで神父に懺悔させてくれと、懇願する。
 一方、踏み絵も踏まず神を信じ続けた人たちは、拷問など似合い殉教していく。さー、沈黙を貫く神が悪いのか、キチジローが悪いのか。

 結果的には、遠藤周作の小説の中の神は、他の信者の苦しみを救うため、まさに踏絵を踏もうとしている神父に向かって声をかける。

踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前達に踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。(P219)

 遠藤周作の神はやっぱり日本人の神なんだろうか。wikiなんかによれば、この結末のせいでノーベル文学賞をとり損ねたとか。次の言葉がなんとなくずっしり来るのです。

「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人は今日まで」フェレイラは自信をもって断言するように一語一語に力をこめて、はっきり言った「神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。」(P192)

 なんつーのか、この小説に描かれるカトリックは、どうしても行き場を失った人たちが寄り添う宗教として扱われているわけです。そこの神の概念をもてないというのは、「貧乏は努力不足」という議論と近いようなものを感じないでもないというか。勤勉というか、頭が固いというか。
 そう、キチジローの居場所はどこなんだろうねと。

『ビフォア・ミッドナイト』監督:Richard Linklater

 ビフォア・ミッドナイトという映画を見てきました。

20140215beforemidnight 映画目当てというよりは、名演小劇場目当てで。初めていったんじゃないかな。いや、いったことあるかな。椅子がふかふかで気持ちよかった。

 でもってこの映画は、結構当たりでラッキーでした。この映画は
「ビフォア・サンライズ 恋人までの距離(ディスタンス)」
「ビフォア・サンセット」
という映画の続き物らしく、映画好きの友人曰く超有名作らしい。

 パリが元の舞台らしいけれども、今回は恋人2人が教授からギリシャに招かれているようで、最終日には友人が気を利かせて二人用にホテルまで取ってある。しかし、子どもやらなんやらの事でケンカがはじまり、最終的に二人はホテルでエッチができるのか否か!と、ホテルの夜までのやり取りをひたすら観察する。
 シーンは5シーンくらいしかなく、基本的には男(ジェシー)と女(セリーヌ)がずーっと会話をしている。歩いたりなんやりの、背景がめっちゃ美しい。
 男であるジェシーはただセックスがしたく、セリーヌはいい雰囲気を作って欲しいだけで、其の夜について利害は一致しているのだけれども、行ったりきたり。ほぼコメディ。
 と、も見えるし、このジェシーとセリーヌは普通の夫婦で、愛し合ってはいても、お互いに妥協できない問題、それは子どもと仕事の問題、を抱えた、夫婦の葛藤にも見える。
「今の私に電車であったら、出会った頃のようにナンパしてくれる?」というセリーヌの可愛い問いかけに、前提条件の確認とか初めてしまう男の「そうじゃねーだろ」感とかにそわしわしながら、でもちょっと男に共感してしまうもどかしさを感じながら男としては見てしまうわけであります。

 お互いが愛を語り合えば合うほど、問題がこんがらがっていく。
 でもって、最後は「ヲイヲイヲイヲイ」というようなラスト。いや、私は申し訳ないがダイスキなラストです。結局は男は女性の手のひらで、いや、女性に頼って生きていくのであります(ぇ)。

『葉桜の季節に君を想うということ』歌野晶午

 とてもミステリー?としてよく出来た本だった。まさに読み直したくなるような。いや、自分はミステリーは元来得意ではないので、参考にはなりませんが、素人には読みやすいという程度に。

 ベースは蓬莱倶楽部という健康食品やら高級布団を売りつける会社。だまされた人、だます人、そして調査する主人公。ごちゃごちゃと、面倒なストーリーが上手く絡み合っていく。そして、「だあああああああああああ!」と叫んでしまうようなネタが仕込まれている。
 作者が、この作品に盛り込んだメッセージも好きだし、タイトルも中々好きだし。

 ちなみに理系の方のようで。結構緻密にくみ上げられてるなーと。まあ、故にやっぱり各人の人間らしさは、作者の中にイメージはありつつも、文面としては多少端折られているような気もするような。もっと人間楽しみたいなー。

 これはネタバレしながらゆっくり人と話したい。

『痴人の愛』谷崎潤一郎

 裏書には「知性も性に対する倫理観もない”ナオミ”は日本の妖婦の代名詞となった。」と書いてある。
 漢字で書くと奈緒美だが、ナオミと表記したほうが雰囲気が出るからと文中は常にカタカナ表記。大正時代、日本が嬉々として西洋化していく様を批判したかったとのことで。

「ああ、勉強おし、勉強おし、もう直ぐピアノも買って上げるから。そうして西洋人の前へでても恥かしくないようなレディーにおなり、お前ならきっとなれるから。(P55)」

とまあこんな感じで。譲治という西洋にあこがれるおっさんのものがたり。
 以下ネタバレきにしませんので。

 譲治は、見合いみたいに、一度や二度会っただけで一生の伴侶なんかきめられるかい。それなら、ナオミちゃんのような15歳くらいの女の子を引き取って、その成長を見届けてから、気に入ったら妻にもらおう。別に、財産家の娘だとか、教育のある偉い女が欲しいわけではない。とかなんとか。
 ちょいと理想が過ぎる恋愛主義か。実際ナオミは、15歳でキャバレーに勤務していて、家は風俗街の中。財産もなく教育も無いワケアリ家庭。
 パトロンを得たナオミは、英会話習ったり、ダンスをならったり、服を買い漁ったり、結構序盤から我がままっぷりを発揮し育っていく。手を焼くだけならともかく、心も焦がし譲治さんはナオミちゃん、主に肉体、にがっつりやられて、浮気されてもどんなことをされても、盲目的にしたがっていく・・・。

 確かに読んでいると、この大正時代末期に急速に日本の文化に西洋の文化が割り入ってきて、色んな道徳的なものが見えなくなってきたのかなと言うのはビンビン伝わってくる。
 譲治はナオミに英会話なんかをやらせるけれど、結局それは日本的な花嫁修業の域をでないのであって、この小説の中ではナオミが外人と仲良くなる手助けをしたに過ぎない。今、谷崎ちゃんが似たような小説を書けば、ナオミちゃんは海外を飛び回るスーパーガールになって、譲治は家でぶうたれるニートになっているかも(笑)。

 日本の文化と西洋の文化の悪いところを凝結させたのが、ナオミなんだろうなという感じがする。現実の世界は、小説の冒頭であった「今まではあまり類例のなかった私たちの如き夫婦関係も追い追い諸方に生じるだろうと思われますから」てなことにはならなかったね。
 正直、まったく貞操概念の無い女の物語は、イライラして仕方がなかったですはい。