タスクが一杯溜まっていますが。サボってます。ゴメンナサイ世界。
抽象画というジャンルが世の中にはあるらしく、美術館に行ったりすると、○とか△とか□とかだけで構成された絵がある。
人間は物を認識する時に、脳はまず○とか△とか□とかで認識するんだと読んだ事がある。それを読んで、抽象画がこの世の中に存在する意味をうっすら理解したような気になったもんだ。抽象画を描く人は自分の認識を極限まで単純化して描いているんだろう。余分な情報を削っていくと、最終的に△とか□になってしまったのかと。正直、△とか□って削りすぎやろって気がするのが本音だけど。まあでも、五七五でまとめちゃったりするのも、ある意味抽象芸術かもしらんな。極限まで見る側のリテラシーを要求されとるのかも。
ちなみにWikipedia先生は、○や□が特定の何かを現す場合は「具象絵画」と言い、それはせいぜい「広義の抽象絵画」である、と書いてある。絵のことはよく分からない。目玉焼きを○二つ使って描いたら、それは具象絵画。何か卵料理的な何かを○二つ使って書いたら抽象絵画?
それはともかく、筒井康隆が抽象画を描く人を、短編小説の中で描いている。『家族八景』という短編集の中の『日曜画家』という作品。
抽象画を描く(とはいっても日曜画家)竹村天洲(てんしゅう)と言う人の家に、火田七瀬がお手伝いさんとして派遣される。七瀬は人の考えを読む能力を持っており、それ故に人間関係がうまくいかない。汚い考え方に嫌悪感をもったり、分かってしまうが故に、相手に不信感を抱かれたり。そこで転職が容易なお手伝いの仕事をしている。
七瀬がここに派遣された初日、当然のように抽象画家天洲の考えを読むと、普通は考えていることだとかが聞こえてくるところ、天洲の場合は、妻はダーク・グリーンの長方形、長男は外側がダーク・グリーン、内側をオレンジで塗り分けた同心円、と映像として捉えていた。ちなみに七瀬は、小さな白い丸。しゃべるとビクビクっとそのイメージが動く。その意識の中では他人を抽象的な物体として認識しているらしい。
そして天洲が実際に作品として描く絵の中にもその妻や、長男と同じ形が出てくる。外部から見れば、ただの長方形や丸なのだが、実は妻や息子を示していたのだ。その抽象化された画が泥沼の中で苦しんでいる。
この物語には、昔犯した女。これから犯そうとする女なんかも出てくる。その人達にもそれぞれの色形が与えられる。
天洲が他人を抽象化して認識する一番の要因は彼自身の精神的な理由があるということなのだが、この辺は、是非本編を読んでみる事をお勧め。
七瀬が天洲の絵を素晴らしいと思っている時のこの言葉が妙に気に入った
もし自分が天洲という人物を知ることなしにこれらの作品を見たとしても、やはりこれらを傑作と判断したかどうかははなはだ疑問だった。それらはいわば絵に描かれた私小説であり、キャンヴァスに定着した天洲自信の意識野だったからである。おそらくどのように高度な批評眼を持つ人々といえども、この絵の本来の面白さはわからないに違いなかった。しかしそれは、絵が駄作であるということではなかった。
筒井康隆の気持ちが透けているような気がする。さらにググってみて知ったけど、筒井康隆の息子は画家だそうだ。
他人に面白さが伝わらないものでも、本質的には駄作ではない。なんか、この感じ「逃げ」だし世間じゃ通用しない考えなんだろうけど、好きだわー。
風景画や人物画ならまあ、適当に良いだの悪いだの簡単に言える。でも実際は、時代背景やその人の見方、歴史、そこまで知って初めて、あるいは外部から絶対に知り得ない情報を入れて初めて作品と言えるものがたくさんあるんだろうなー。そしてまだまだ未開の作品が沢山眠っているだろうなー。解説を加えることで初めて作品になる。解説する人も大事な役目だね。
それを見つけるには、勉強するしかないと。なはー。
結構筒井康隆の書く画家の内面に度肝を抜かれたのでした。
そうそう、書き忘れた。他人の家庭の考えを除く七瀬ちゃん。処女であるという設定に筒井康隆の並々ならぬこだわりを感じる(笑)
1700字くらい
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