コメントもめっきりなくなったこのブログですが、そらそうだわな。
本の気になったところの要約するだけなら、あまりにも意味がない。多少は自分の知識やら考えを入れないとなー。などと思いつつ。アダムとイヴの続き。
この本は四章構成です。
第一章 人間の創造
第二章 エデンの園
第三章 原罪と追放
第四章 エデンの東
後半3章と4章、禁断の果実を食べて、追い出されて、そこで兄弟殺ししてさらいエデンの東に追い込まれると。
テキストとしては、ひっじょーに短いのに、これだけの影響を後世に与えてしまうというのは…この解釈一つで戦争までおきるんだから。
まーでも旧約聖書ってのは、良い面では人のあるべき姿とか、科学とかの、たたき台にはなったのかもしれないなと。「旧約聖書に書いてあることが正しい。」という前提があったからこそ、それに対する批判も生まれ、善悪の議論もできるわけで。
個人的には、アダムとイヴはBonnie and Clydeみたいな、危険だけどなんとも言えない魅力も感じるなあ。まー失楽園だとかまさにそーいうのを感じた作品もあるわけだろうけれども。
第三章 原罪と追放
イヴとアダムが禁断の果実を食べてしまうことについては、ポジティブなものとネガティブなものがあるそうです。つまり、残されている絵を見れば、愉快そうに追放される絵と、いかにも悲観しながら追放される絵があるそうな。
前者は尾崎豊タイプで、後者は調子にのりすぎて店から追い出される客とか。
創世記 3
1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
聖書(新約聖書・旧約聖書)←ここより拝借
なるほど、木の実を食べることによって、恥を善悪を知るものになることができたわけで。と思えば、未だにエデンの園にいるのではないかというような方もおられますねえ。
この禁断の果実騒動をめぐっては、この著者曰く、旧約聖書内でも、イエスがいうにも、禁を破って果実を食べたイブやアダムは責めてはいないそうんな。
このアダムとイヴが責められるようになったのはパウロのローマ人への手紙からだとか。曰く「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた(5.12)」「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた(5.18)」「ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた(5.19)」と、アダムをぼろ糞に言った上で、イエス・キリストを持ち上げているのでありました。
ここにパウロさんが、ユダヤ教からキリスト教へと人の心を動かす苦心が見えるわけですなあ。
この禁断の果実を食べることがよかったのか悪かったのか。これは、イヴの評価、ひいてはアダムとイヴを根拠にした性差別にも繋がっていくわけですね。最初に誘いに応じたイヴは罪深いとも言えるし、人に知恵を与えるきっかけを作ったともいえる。
ただ、やはりここでパウロは「またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。(テモテへの手紙一2.14)」と…しかしこのテモテへの手紙の他のところも女性蔑視プリはひどいな。
ところでこの原罪、色々議論は飛躍するもので、
- ルソー:私有財産制こそが、いわば罪の原点である。この不正をただすことができるのは、「社会契約」にもとづく民主主義によってであり、教育に求められるのは、人間本来の「自然状態」を可服することである。(P125)
- カント:原罪を、人間の進歩―動物性から人間性へ、本能から理性へ、自然から自由へ―として積極的に評価しようとる。(P125)
- ヘーゲル:原罪こそが人間を人間たらしめるものだ。善悪を識別できる知恵の木の実を食べたために、絶対の満足を得られなくなる。罪はもっぱら認識にあって、人間は認識のはたらきによってうまれながらの幸福をうしなってしまう。(P127)
- キルケゴール:原罪の本質とは、無限の選択の可能性を前にした人間の自由の不安のことにほかならない。(P128)
- ニーチェ:人類の犯すより抜きの自己汚辱(P128)
しかしながら、善悪の知恵こそが原罪というのはよく考えられているよなと思う。
第四章 エデンの東
創世記は四章に入ると、イヴは追い出されたた先で、兄カイン(農耕)と弟アベル(羊飼)を生み、アダムとイヴの物語から離れる。
カインは土の実りを、アベルは羊の初子を供え物として神の差し出すも、神はアベルのものしか受け取らない。で、兄は怒って弟を殺してしまう。これが人間の第二の大罪だと。
そして、カインは耕していた大地からも追われて、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んで、「街を建てた」のでした。
これすなわち、旧約聖書で初めて人が街を建てたことになるようで。罪に感謝ですな。なお、ユダヤの伝統では、このカインの罪こそがノアの大洪水の元凶とも言われるとか。
なぜカインの差し出し物はとらなかったのかのヒントとして
カインと言う名前は「所有」という意味
アベルは「神に(すべてを)もたらすもの」という意味
があるそうな(P167)。
ルソーが「私有財産制こそが原罪だ!」って言っているのは、土地を保有し果実だけをもたらそうとしたカインとのからみだったりするんだろうか。
さてと。進化論を前提とする世界に帰りましょうか。
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