大それたタイトルにしてしまって書きにくくて仕方がないのだけど、本来こんな自信に溢れたタイトルなんぞつけられるわけがないわけです。ぐすん。
今日はしょうがなくタイトルは決め打ちで。このさぼりがちなブログをちまちま更新してみるのです。どうしても我々は筆無精であり、手紙は愚か悪筆をさらす必要のないブログなんかでもサボってしまう。でもさ、なんだかんだ普段の出来事や思っていることを発信している人の方がやっぱり身近に感じるし、さらにそれが自分に宛てた直筆手紙なら結構嬉しいに違いない。
やって損はしないんだから、文章書いてみませんか?そしてどうせ書くなら読者が嬉しいと思う文章書きませんか?ってな提案をしてくれるのが、遠藤周作「十頁だけ読んでごらんなさい。十頁たって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。」。多分タイトルはうちの本の中で最長じゃないかと思う。ちなみに遠藤先生は直筆の手紙を勧めておられるんだけどね。
ところで良い本の紹介をしようと思うと、特に中身を紹介しようとすると、最近いつも同じ悩みにぶち当たる。もとの文章が良すぎて、何一つ無駄な文章がないことに気付くのだ。一度引用し始めるときりがない。部屋の一部分を掃除し始めると別の汚い部分が目に付き、結局全部掃除しないと気が済まない。そんな感じだ。
それでも少し紹介してみる。
ぼくの経験からいいますと、筆無精には大体、三つの大きな原因があるように思われる。
第一の原因は、手紙の中で名文を書こうという気持ちから生ずるものです。あるいは手紙にはなにか手紙特有の書き方があるような錯覚をもっているため、普通のなんでもないことならスラスラと書ける筈なのに、わざわざ便箋にむかって、「背景、貴下、清栄の段、奉賀申上げ候」こんな文章で書き始めねばならぬと思いこんでいるためです。
これは、このネットで気軽に書ける時代になって、大分無くなった気がするけど。直筆の手紙となるとやっぱり少々思いますわな。他にも原因が2点紹介されているけど、興味がわくなら買って読んでみると良いと思う。
もういっちょ「ようなゲーム」というのを紹介されています。
遠藤先生が作家になるために行ったという良い文章を書くための訓練だそうで。
1.まず適当に外を眺める
2.爺さんの頭は□□□のように光っていた。
というような文書を作り、□□□に適当な字を当てはめる。
3.ただし
・普通、誰にも使われている慣用句は使用せず
・しかもその名詞にピタリとくるような言葉を
なおこれは引用ではなく私の要約ですが、これを遠藤先生は文章が下手と言われひたすらやりまくっていたそうです。
ちなみに、一番この本で言いたいことは「読み手の身になって」ということのようです。
このブログ一個書くだけでも10人20人の顔が思い浮かびます。遠藤先生は小説を書く時何を考えていたんだろう。ちょいと不思議ですな。
私は過去に送った数々の恥ずべきメール手紙なんかを反省したのでありました。
ところでこの本、没後10年後に出版された本だそうで、未発表原稿だったようです。さらには、文章自体はさらにその35年前のもので、病床にいる遠藤先生が書いていたとか。文章の中にはお見舞いの例文などが結構多く、病気の中で文章と向き合っておられたんだろうなあと、しみじみ思うような内容でした。
私は蓋し名著だと思います。
[ようなゲーム]
灰色のTシャツが床に無造作に置かれている。
まるで固まり損ねたアスファルトの様である。
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