注:「あぁーまた、みむらがくっだらん長い文章かいてらー」と思ったら、とりあえず、国語の教科書にあるらしい『山椒魚』(井伏鱒二)をひっぱりだし、かつ『山椒魚』(とも)(←クリック)を読むべし。それがこの本文のすべて。
さて、それらの感想をいまいちまとまらないけど、そんな思案に暮れるほど時間もないので、書き始めてみる。
わずか12ページほどの短い作品で、国語の教科書にも載っていると言うことなので(わしゃ覚えてないけど)、ぜひ読んでみると楽しいですよー。
なかなか奥深い作品『山椒魚』(井伏鱒二)。
あと、その山椒魚を元に書いた、『山椒魚』(とも)(←クリック)も読んだ。
作品を見比べるというのも結構オツなもんですな。より見える物があるというか。
以下は読まなくていいので、上記2作品は読んでみる事をお勧め。結構考え深いっすよ。
これ以降、主観的な感想。読んでない人には間違いなく伝わらない。意味不明なので読んだ人にも伝わらない。
主人公の山椒魚ってのは、生まれた時から絶対に出られない檻の中で暮らしているわけで、気づいた時に絶望するとしても、ある程度のあきらめはつくだろう。そしてその檻の中で楽しみを見つけていくだろうと。
その自由を奪われている中で、自由でないことから自由を見つけ出していく姿が面白い作品だなーと、最初に井伏山椒魚を読んだ時は思った。
ただ、二回目三回目と読み始めて気になるのはやっぱり蛙だろう。広い世界を知る蛙が檻に閉じこめられる。その上で、相手に心許せる物なのだろうか・・・。恨み節で終わらないのが、両作品なわけで・・・。
井伏蛙はひらきなおっているように見えるし、とも蛙は檻に入っていることさえ気づいていないような気さえする。(なんたって男はバカだから。わしなら気づかない。)
元々与えられている檻の大きさが違うわけで、それが一番の文章の違いになっているような気がする。でも、とも山椒魚も、物語が続けば、井伏山椒魚みたいな世界になっていくような・・・。
蛙は、山椒魚の作り出した檻に入れられることで、結局、元の山椒魚と同じで、開き直るしかなく、その中で小さな自由を見つけ出す。そんなデフレスパイラルのような世界が、これら文章の先にはある気がする。
どちらかといえば、自由を手に入れたと思ったけど、真の自由は別にある。みたいな葛藤はこなれた感じはするけど、こーいうマイナスな感じは新鮮な感じがした。
ネガティブであることが最大のポジティブ。ってな感じかなぁ。
まともな感想書けなくてすまんねぇ。言葉にすると、漏れ出す物もあるけど、頭もすっきりするね。
まぁしかし、井伏鱒二が
1985年、『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に収録する際、井伏はこの作品の末尾「ところが山椒魚よりも先に~おこってはゐないんだ」の部分を全て削除してしまった。この件に関しては当初、文壇のみならず各方面から非難が集中した。しかし現在は、これに関しては批判ばかりではなく様々な意見が出ている状態である。以下に主なものを引用する(一部改)。(Wikiより)
と、削除したというのはびっくりしたねぇ。
ちなみに言えば、とも山椒魚を読んで、一番に宇多田の「prisoner of love」を思い浮かべたのは言うまでもない。