●なぜ人間は音楽に感情を揺さぶられるのか
最後に、哲学の世界では「人間とは、生きるために必要のないことをやっちゃう生き物だ(うろ覚え)」みたいな事を言っていた。
小説や、絵画、音楽いろんな『文化』と言われる物があるけど、なんなんだろうかこれらって。確かに人間だけが、こーいう「生きるのに無駄そうな事」をやっている気がする。
少なくとも、犬が人間を見てしっぽを振ることよりも遙かに無駄な事だろうと。その無駄な事にかなりの時間を費やしている・・・。人間が『文化』っぽいことを好む理由。気になるんだよなー。
個人的には、『やっぱり文化を持つことは、種が保存されるために有利なことなんだ』という合理的な説明にいきついてみたいなぁ。
なんて事を書いていたんだけど、自分の中で「なぜ人間は音楽に感情を揺さぶられるのか」というのは結構大きな問いだった。
宇多田ヒカルライブの時には、心の奥の方にある何かをグラングランに揺さぶられた気がした。今でも多少劣化していても、その時の感動は残っている。
そんな激しい感情を興す音楽であるのに、どうも他の生物には見られない気がする。生き物全体にとって音楽が感情を揺さぶるようなものなら、家でCDをかけていれば自然に野犬が集まってきても良さそうなものではないかと。
つまり人間だけなんだなと。
では、なんで人間だけがそんな機能を手に入れたのだろうか。というのが自分の中で疑問なのであります。
で、例によって爆笑問題のニッポンの教養『FILE037:「私が愛したゴリラ(前編)」』を見ていて、納得いく自分なりの答えにたどり着いたのでした。
この回はゴリラの研究者が出ていたのだけど、彼曰く『ゴリラは鼻歌を歌う』らしい。仲間とご飯を食べながら歌を歌ったりもするらしい。
人間が『鼻歌を歌う』というのは、歌詞に共感して、集団に属している安心感を得たり、他者の価値観を斟酌したり、なんかかんか理由はつきそうだけど。
ゴリラはなぜ『鼻歌を歌う』のかと。
そんな事を考えていて(番組の内容にもヒントを得て)、たどり着いたのが・・・。
『音楽はコントロールの手段』だな。と。
歌は自分であったり、他人であったりをコントロールする手段なのではないか。と考えたのです。
ゴリラとか人間は、急速に頭だけ進化したので、新しい脳みその機能である感情を制御しきれないのではないか。そして、その感情を制御するために、音楽を使ったのじゃないかと。つまり、序盤は『血の音』とか『海の音』とか生活に近い音を出すことによって、高ぶった感情とかを落ち着かせたんではなかろうかと。
その段階で、「興奮させる音楽」「落ち着かせる音楽」とかいう物が心に刻み込まれた。
でもって、それはやがて集団のコントロールとかにも使われるようになっていったのではないかなぁと。その特定の集団のコントロールのために、集団ごとに各地で独自の音楽が進化してきたんではないかなぁと。
そんな事を考えていると、今の音楽は少し性格が違うのかなぁと思い始める。今の歌詞付きの音楽は『コントロール』する目的と『他者との共感』を求める二つの意味があるのではないかなぁと。
感情のコントロールを元とするなら、歌詞など必要ないないじゃんね。私は元々歌詞はあまり耳に入ってくることが無くて、音楽のノリだけで十分だったりする。ここ最近になって歌詞も読んでみようと思うけど、結局めんどくさくてノリだけだったりする。
逆に歌詞にめちゃ共感する友人も多数いる。歌詞に共感している人たちは、どちらかというと小説とかの『他者との共感』だったりを目的として音楽を聴いている(読んでいる)のかなぁと。
もちろん私を含めて、どっちかだけと言うことはないんだろうけど。
ただ、発信する側は、歌詞に共感して欲しいという気持ちと観客の感情をコントロールしてやろうっていう感情がまじってるんじゃないかとーと。勝手に想像してみるのでした。
どうよ。結構自分なりに満足した。
追伸:
音楽を作る側は支配欲があるんだろうなぁと。
そうなると、音楽や小説でも「こーいう構成考えられてるなー」と言う見方をする人がいるけど。そー言う人は支配者的な立場から物事を観察しているんだろうと、ふと考えた。
共感や、感情ではなく、他者を支配するための知惠として。
音楽を流す人と聞く人は全く別なのかもしれない。
※追記(2007/7/12)
死に舞 - 音楽と感情をめぐる冒険
という学問的な記事を発見した。また調べてみよう。