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2009年2月19日

長江裕明氏死去

 GANEのページで知った。
 長江裕明さんが亡くなったらしい。

長江裕明氏死去 冒険家
2009年2月17日 19時00分

 長江 裕明氏(ながえ・ひろあき=冒険家)6日午前0時半ごろ、拡張型心筋症のため神奈川県葉山町の病院で死去、60歳。三重県出身。自宅は愛知県南知多町内海揚東47。葬儀は故人の遺志で行わない。

 86年、手作りのヨット「エリカ号」に乗って妻と長女の一家3人で世界一周を達成した。

中日新聞サイトより

 記事のタイトルに「冒険家」
 かっこいいねぇ。
 葬儀は行わない、か。あの人は死なないつもりかな。そこは人として「死んどけよ!」

 長江さんの家でヨットにのった時の日記を見ると、現状じゃ考えられないような、楽しそうな記事を書いてるなぁ。自分。たった一年半前か・・・。
 ここ最近は、あっちこっちで上手く行かず、激しく落ち込みまくりだったけど。この人の死を知って、このままじゃいられないなぁ


 丁度今日、専門学校からの帰りがけ。
・緊急車両二台
・道の真ん中で斜めにとまっているタクシー
・取り囲む野次馬
・道の中央で倒れている人
というのを見た。

 「みんな死ぬんだよなー。」なんて、ぼんやり考えながら帰ったところだった。
 たまには「死を前提に生きること」を考えないと、わけのわからんことをしている時があるよね。死を意識することってのは大事だよな。


 話はずれたけど、長江さんってのは常に後悔をしないように航海をしているような人だった(上手いこと言った!)。まぁ、それでもやっぱり悲しい目をしていた。どんな人生でも、満足するものはないってことだろう。特に、一年半前会った時には、余命を宣告されている状態であったわけで・・・。
 それでも、あーいう悲しい目は、魅力的でもあるわけで。私は、いつも人前で笑っているような人の「悲しい目」「寂しい目」にはめっぽう弱い。笑ってるけど目は泣いてるよ!ってなやつ。

 長江さんとの出会い、思い出すだけでワクワクしてくる。


 なんていうか、一つのカッコイイ生き方を見させて頂きました。心より感謝すると共に、ご冥福をお祈りします。
 どうですかね、空島は楽しいですか?長江さんなら雲の海をもすーいすい。でしょー

チーン

2009年1月10日

クラスター爆弾禁止条約と請願権

以下、断定系で書きますが、ソースがwikiとか不確かな物も多いので、「らしい」と読み替えてください^^;

 まずもって、この話の概略は
クラスター爆弾禁止条約を批准しないことを求める請願が西村慎吾代議士を紹介議員として提出される。と言う話が河野太郎代議士のブログに書いてあったので、何?と思って調べたメモです。

 読んでみたいという方は以下

続きを読む "クラスター爆弾禁止条約と請願権"

2008年12月30日

2008年振り返り

 宇多田の15~6の時のライブDVDを見ると気合いが入るねぇ。


 この小娘は、この年でこれだけの「価値」を世に提供しているというのに、こちらは未だに勉強するなんてことを理由に、価値を費消するばかりで。
 そもそも、今年税理士試験が終わっているはずだったんだよね。それが未だ続いているというのはいかんね。自分が楽しみたいなら、まずは自分から世に価値を提供せねば。
 しかも、自分の弱さのせいで人傷つけたことも、パッと考えるだけで大量に思い浮かぶ。

 と、多分最初に進路を考えた時も似たようなことを考えたんだろうなぁと。初心に返る感じです。ぴしっ。


 もう気づけば25になる手前。
 人生50年であれば、すでに折り返し地点。

 2008年の反省なんて一言だな
「気合い入れんかボケェ」

2008年10月29日

高橋尚子選手の引退会見を見て

 ふと、高橋尚子選手の引退会見を見ました。
 とても素敵な方ですね。


 この会見を見て、今まで陸上や高橋尚子選手にさして注目して見ていたわけでもない私に何が解るんだ。ということではあるけれども、少しだけ感想を書いてみたいなぁと。


 そもそも高橋さんが引退を決断したのは、プロとしての走りが出来ないと考えた、という事のようです。
 高橋さんの中にプロ基準ができており、その基準を達成出来なくなってしまった。という事が大きかったようです。陸上における自分の肉体や精神を知り尽くしており、その変化を敏感に感じ取っての事なのでしょう。
 さらっと書いてしまいましたがすごいっす。

 そしてこの会見を見て、ビビビと感じたのは「かっこよさ」。
 言葉一つがカッコイイ。と言うわけではないのですが、終始笑顔で陸上が大好きです。と言えるのは凄い事だなぁと。
 話の中に「チームQ」というのが出てきたのですが、この支えてくれた人たちのことを「人生を変えて付いてきてくれた」と表現している節がありました。日本全体の声援もそうでしょうが、このプレッシャーも大きなモノだろうと。
 こういった多くの期待で重くなった「Qちゃん」と言う看板を背負い、公になっていないような様々な苦労を背負いながらここまで走ってこられ、その上で本当に素晴らしい笑顔で会見をされている姿は格好いいなぁと。
 それと同時に、周りに笑顔でいるということは、自分一人で泣かなきゃいけない言うことも同じであり、胸が苦しくなるような感情もわいてきます。

 ついでに我慢出来ずに書くと、最後まで「幸せでした」と言っている高橋さんに対して、メディアは「辛かったことは何ですか?」「チームQのマイナス点はなんですか?」という無粋な質問ばかりであることに、多少気分が悪くもなりました。(ほんとはその愚痴だけで数千字愚痴を書きたいくらい。)


 ちなみに実益的な事を書くと、「精神」ってのが大事なんだよななぁと。
 怪しいコンサルの人が書いた本なんかには「ポジティブでいろ」みたいな適当な事が書いてありますが、スポーツ選手が言う「精神」というのは違う感じがします。
 会見の中で高橋選手がプロの試合前の精神力の話もされていますが、引退の理由の一部として自分の「精神」をプロのレベルでコントロールできなくなってきた。みたいな事も言われています。
 いろいろ集中力が必要な事を頑張っていた人には当たり前なんでしょう。自分の精神をコントロールするということ。
 私は「精神のコントロール」なんて言われるとさっぱりです。少しは鍛えられるといいなぁ。今でやっていることで言えばピアノが一番近いのだろうか・・・


 何はともあれ、今後もどのような形であれ素敵な笑顔をずっとしていられるような、幸せな人生を歩んでいただければいいなぁと、日本の中心で「Qちゃん」を叫んでみたのでした。

2008年7月13日

熱くなりすぎて(今日の反省)

わしよ
論理も文章もなにもかも破綻しておる・・・。

冷静になれ冷静に・・・


勉強しような。なっ。
しっかり知識をつけて、冷静な立場から物事を見れるように
なろうな。なっ。


何分世の中知らないことが多すぎて、
知る興奮に日々うなされるのであります。
やっぱり、何に興奮するって知識だわ。


今丁度、冷静と情熱の間。


これで24だぜ・・・。
もうちょっと大人になりたいところだ・・・。


2008年7月 9日

言葉遊び「責任とは」

 「責任」という言葉で自分のブログを検索すると、ずいぶんひどい文章が並ぶ・・・。
 この言葉は曖昧で、自分の心が弱っている時には自分を責めるし、逆の時には人を責めるきつい言葉となる・・・。

 友達のブログに

ところで
責任っちゅーのを定義出来るかね?
何度か挑戦してみたけど
わしには無理だった。

 とコメントしてしまったので、せっかくなので今一度「責任」の定義を考えてみていた。
 ちなみに、責任を定義しようとして、過去何度もエントリーを立ち上げようとしていたのだけど、一度も果たせなかった。が、風呂で考えていて今回は少し考えがまとまって来たかもしれない。

 では早速ですが


 責任とは、ある者(人や法人)が原因となって発生した損失を弁償する義務、を言う。
※ここでいう損失は、金銭的損失や精神的損失など、あらゆる負の概念を言う。

 と定義してみよう。

 特に責任には、
◎法律や契約によって履行せざる終えない責任(法的責任)
◎社会的にその責任を履行しないと生きにくい責任(世間的責任)
◎特に誰に問われるわけでないけど、積極的に果たしていく責任(自己満足的責任)
 くらいの段階があるのではないか。

 例えば、私が部屋でもっさりと素っ裸で寝ていたとしよう。
 その事によって、たまたまその光景を目にしたおばあちゃんが「ショックでスーパーで買った卵を落として割れたとすれば。(もちろん良い意味でショックを受けるのである)
 私が原因で、「スーパーで買った卵が割れる」という損失が生まれた事になる。
 この時点で、法的、世間的、あるいは自己満足で責任が生じる。
 例えば法的責任だと「公然わいせつ罪」かもしれないし、世間的責任では「卵を弁償しなさい!」ってなことかもしれないし、自己満足的責任としては「おんぶして家まで連れ帰ってあげよう」となるかもしれない。

 しかし、おちた卵から元の卵をそのまま復元せよとまでは言われないだろう。こーいう義務として生じないものは責任から除外してもいいと思う。(自己満足的責任として義務化する人もいるかもしれないけど。)


 他者に対して「責任をどう取るのですか?」と言いたければ、一つにはその者が原因であることを明確にする必要があるだろうし、その損失を明らかにする必要があるだろう。
 その上で、法的責任はもちろんのこと、世間的責任を要求することになるのだと思う。
 ただ、やはりこの「世間的責任」が厄介で、これはプレゼン能力で軽減されもするだろうし、むしろ大きくなることもあるだろう。

 そして、その責任を取らなければ、その者は損害を生じさせても逃げてしまうと言う評価が与えられるため、社会的に行動がしにくくなる。とれもしない責任を誇張して言うのは、極めてリスクが高いことだとも言えるだろう。


 逆に言えば、事前に自分がとる責任の範囲を明確にしておけば、何らかの損失が生じた時にも「評価向上」につながる可能性があるねぇ。


 また、どっかの社長が不祥事起こしてだれかに被害を被らせたとして「辞任」したりするけど。やっぱりこれはおかしいねぇ。
 当然、損失は被害者が被った何かであるし、それを弁償するためには、その被害者に対してなにかすべきであろう。
 会社辞めて、給料放棄したって、被害者にはなんのメリットもない。

 
 とまぁー定義をしてみるといろいろ考えるきっかけにもなるねぇ。
 なんて、思考ゲームでした。


 以上を書いた後にwikipediaの責任を読んでいた。
 どうも議論は奥深そうである・・・。

2008年6月28日

もーいーくつねーるとぉー、半年。

 今年も半年たとうとしているようで。
 去年の今頃のブログを見ていたら、目標の反省をしているではないか。

 今年もやってみよう
 本年一発目の記事では以下のように書いていた

 ここ二日新年会らしきものに出てきて、新年のすがすがしい気持ちを全部すっとばされてきました。

 服装がダメだとか、てめぇーの顔なんざ見たくもない(少々誇張だがそう聞こえた)とか、20歳前後の年頃の女性陣に散々言われてきました。
 ついでに男性陣にも。ただ、彼女いない輩には言われたくない。ん・・・いない・・・よな?

 もてない云々のいじられ方は、慣れているはずなのですが、女性陣にボコスカにされると、ちょっと立ち直れないです。
 最近は、人様の母親にまで心配されているようです。

 ほうほう・・・。そーいえばそんなことあったな・・・。今年は会社でも事ある毎にお姉様方に「これじゃ結婚出来ないわねー」と言われてきた半年だったなぁ・・・。
 って、そろそろもてない事をネタにするのもいい加減卒業しないとなぁ・・・。


 で!肝心の目標は

 新入社員1年目と言うことを考えると、「人の気持ちを酌み取る」が妥当なんだろうなぁ。
 四字熟語にして
「気持酌取」(きもちしゃくしゅ)
 今年はこれでいきますぅ!

 と書いてありました。
 「すぅ!」とかバカじゃないのか。客観的に見るとむかつくエントリーだなー。

 しかししかし、なかなかどうして、かくかくしかじか、良いこと考えてるねぇ新年。
 せっかく考えたのに、まったく日常に活かされていないのが残念だけど・・・。


 平素なら「自分の気持ちを大事にしろ」と言っちゃうところだけど、今年は少し無理してでも人の気持ちを考えようとしてたんだねぇ。
 半年たったし、気持ちも新たに人の気持ち酌み取ってみますか。

2008年6月14日

インプットとアウトプットと・・・

今まで自分の中で
インプットアウトプットは結構意識して生活していた。

「最近本読んだりインプットばかりで、そろそろアウトプットせにゃなー」とか、
「いろんな活動してばっかりで、アウトプットばかりなので、そろそろインプットをまた増やさなきゃ」とか、
 いろんな偉い人も言ってるし。1のアウトプットのためには100インプットしろとか(適当)。


 ところで、ふっと久しぶりに「ほぼ日」を読もうと思い立って、その中の『ねむりと記憶』というのを読んでて、気づいた。
 インプット→処理→アウトプット
 だなぁーと。発想の中に処理が抜けてた。

 さらに処理ってのは、(嫌でもアウトプットの段階ですることになる)ゆっくりと考えたりすること。だけではなくて、それこそ寝たり、ぼけーっとしたりすることも、脳みそにとっては重要な処理のひとつなんだなぁと。
 というか、起きている時よりも寝ている時の方が頭が活性化しているらしい。


 最近クソ時間に追われていて、頭がこの私の部屋のように、最近久しぶりに大人のゴキブリを見たんだが・・・、散らかっている感じだった。これいじょう詰め込むことも出来ないし、かといって何か出来るかと言われれば、整理出来てないからなにも出来ない感じ・・・。
 本読んだり、情報集めたり、人にしゃべったり、ブログに書いたりする(今書いてるけど。)時間削って、ぼけーっとする時間を作ろうと思ったのでした。

2008年5月31日

なぜ人間は音楽に感情を揺さぶられるのか

かつて

 最後に、哲学の世界では「人間とは、生きるために必要のないことをやっちゃう生き物だ(うろ覚え)」みたいな事を言っていた。
 小説や、絵画、音楽いろんな『文化』と言われる物があるけど、なんなんだろうかこれらって。確かに人間だけが、こーいう「生きるのに無駄そうな事」をやっている気がする。
 少なくとも、犬が人間を見てしっぽを振ることよりも遙かに無駄な事だろうと。その無駄な事にかなりの時間を費やしている・・・。

 人間が『文化』っぽいことを好む理由。気になるんだよなー。
 個人的には、『やっぱり文化を持つことは、種が保存されるために有利なことなんだ』という合理的な説明にいきついてみたいなぁ。

 なんて事を書いていたんだけど、自分の中で「なぜ人間は音楽に感情を揺さぶられるのか」というのは結構大きな問いだった。
 宇多田ヒカルライブの時には、心の奥の方にある何かをグラングランに揺さぶられた気がした。今でも多少劣化していても、その時の感動は残っている。

 そんな激しい感情を興す音楽であるのに、どうも他の生物には見られない気がする。生き物全体にとって音楽が感情を揺さぶるようなものなら、家でCDをかけていれば自然に野犬が集まってきても良さそうなものではないかと。
 つまり人間だけなんだなと。

 では、なんで人間だけがそんな機能を手に入れたのだろうか。というのが自分の中で疑問なのであります。


 で、例によって爆笑問題のニッポンの教養『FILE037:「私が愛したゴリラ(前編)」』を見ていて、納得いく自分なりの答えにたどり着いたのでした。

 この回はゴリラの研究者が出ていたのだけど、彼曰く『ゴリラは鼻歌を歌う』らしい。仲間とご飯を食べながら歌を歌ったりもするらしい。
 人間が『鼻歌を歌う』というのは、歌詞に共感して、集団に属している安心感を得たり、他者の価値観を斟酌したり、なんかかんか理由はつきそうだけど。
 ゴリラはなぜ『鼻歌を歌う』のかと。
 
 そんな事を考えていて(番組の内容にもヒントを得て)、たどり着いたのが・・・。


 『音楽はコントロールの手段』だな。と。
 歌は自分であったり、他人であったりをコントロールする手段なのではないか。と考えたのです。
 ゴリラとか人間は、急速に頭だけ進化したので、新しい脳みその機能である感情を制御しきれないのではないか。そして、その感情を制御するために、音楽を使ったのじゃないかと。つまり、序盤は『血の音』とか『海の音』とか生活に近い音を出すことによって、高ぶった感情とかを落ち着かせたんではなかろうかと。
 その段階で、「興奮させる音楽」「落ち着かせる音楽」とかいう物が心に刻み込まれた。

 でもって、それはやがて集団のコントロールとかにも使われるようになっていったのではないかなぁと。その特定の集団のコントロールのために、集団ごとに各地で独自の音楽が進化してきたんではないかなぁと。


 そんな事を考えていると、今の音楽は少し性格が違うのかなぁと思い始める。今の歌詞付きの音楽は『コントロール』する目的と『他者との共感』を求める二つの意味があるのではないかなぁと。

 感情のコントロールを元とするなら、歌詞など必要ないないじゃんね。私は元々歌詞はあまり耳に入ってくることが無くて、音楽のノリだけで十分だったりする。ここ最近になって歌詞も読んでみようと思うけど、結局めんどくさくてノリだけだったりする。
 逆に歌詞にめちゃ共感する友人も多数いる。歌詞に共感している人たちは、どちらかというと小説とかの『他者との共感』だったりを目的として音楽を聴いている(読んでいる)のかなぁと。

 もちろん私を含めて、どっちかだけと言うことはないんだろうけど。
 ただ、発信する側は、歌詞に共感して欲しいという気持ちと観客の感情をコントロールしてやろうっていう感情がまじってるんじゃないかとーと。勝手に想像してみるのでした。


 どうよ。結構自分なりに満足した。

追伸:
 音楽を作る側は支配欲があるんだろうなぁと。
 そうなると、音楽や小説でも「こーいう構成考えられてるなー」と言う見方をする人がいるけど。そー言う人は支配者的な立場から物事を観察しているんだろうと、ふと考えた。
 共感や、感情ではなく、他者を支配するための知惠として。

 音楽を流す人と聞く人は全く別なのかもしれない。


※追記(2007/7/12)
死に舞 - 音楽と感情をめぐる冒険
 という学問的な記事を発見した。また調べてみよう。

2008年5月28日

これは素晴らしい技術です!(※使用法によっては人類を滅ぼします)

 爆笑問題のニッポンの教養
特別:新年会スペシャル ~2008年 これがニッポンの大問題~
を見てしまった。(家の掃除、資料の整理等々できなかった・・・。)

 見ながら、科学が世界を幸せにするのかどうか、再び再び考えてしまう。結局みんな「知りたい」がために科学をするのであって、「世界を幸せにしたい」なんていうのは、世間体の問題だろうと。世界を変える発明は、使い方次第で人類を滅亡させるだろうし、発展させることもできるかもしれないのだと。

 工学出身の同級生でも、新しい研究は「世のためだ」と考えている人をちょろちょろ見かけるけど。諸刃の刃であることはしっていてほしい、そしてちょくちょく議論してほしいなぁーと思ったりしながら見てた。

 とまぁーいつも思う事を、また考えたのでした。

 
 とその他、見ながらメモったキーワード

「相関関係と因果関係」
 相関関係と因果関係が怪しくなっていないか?との発言。{ちなみに理屈を突き詰める科学者の発言だからなお面白いと思う。}
 何かの数値があがると、何かが連動して高くなる(爆笑問題がネタを発すれば、客が笑う事が多い)という事例が見られる場合(相関係数は高い場合)。果たしてそれが「爆笑問題のネタ」が原因で、「客が笑った」のかどうかは疑う余地がある。と言う話。

 つきつめていけば、ほとんどの物を疑うことができる。「メガネをかけているからよく見える」と言うことさえ、直接の因果かがあるかどうか解らない。

 この視点はいままで持ち得なかったなぁ。


「効率の分母は時間」
 効率が良い悪いっていうのは、時間が分母である関数で計るんだ。と。
 あーそりゃそうだな。と。


「平等性」「均質化」
 太田が「大人が、この世界はこんなに楽しいんだ!って事を発信しなきゃいけない」ってな発言をしたところで、「楽しい」の定義を聞き出す場面で出てきた言葉。

 楽しい世界(例えば面白い小説があったり、映画がでたりするようなドラマチックな世界)っていうのは、貧困があったり戦争があったり、危険や死と隣り合う世界だったり実はする。
 が、文明は「平等」で「均質」を目指す。

 この辺の議論は曖昧になってしまったけど。深めれば結構面白いかもしれないと思う。(危険な事になりそうな気もするけど)


 はてはて。まぁー聞いてて最大の課題だなーと思ったのは。好奇心溢れる科学者を、「倫理」や「モラル」といった言葉で抑えきれるかどうか。が大変重要だなぁと。
 哲学者がいっていたけど、「クローン人間は作らない」っていう考え方は、理屈(理論)たててできる話じゃない。なんとなく心の中にある境界線。というだけの話。
 この「境界線」を超えた時、おそらく人類は結構あっさりと滅びたりするんだろうなぁとは思う。そしてそれは21世紀私の生きているうちでさえ十分にありえると。

 工学部にいたけど、あんまりこーいう議論は授業的な場ではしなかった気がする(飲みながらはしてみたりするけど)
。理屈を並べて、世界を滅ぼす人材がでなきゃいいけどなー。きっと出てきた時には法律や国じゃどーにもならないんだろうねぇ。そえrが悪いことに、情報化社会だから。

 と。だらだらと。

2008年5月15日

相手のための格好

相も変わらず服装にまったく無頓着な私。

ほぼ日でめちゃめちゃ面白い1ページがあった
金魚鉢は景色がゆがむ
動物病院の野村潤一郎先生という人だそうです。


「ここまでパリッとした白衣や
 大がかりな設備が必要なのかな」
って思われるかもしれない。
でも、要るんです。
僕は、医者だから。
患者にとって
貧乏な医者に診てもらうほど
惨めなことはないからです。

(略)

「清貧」って言うけれど、
清く正しかったら
貧しくなるわけがないんです。
「清く正しくても貧である」場合には、
何か問題があるんです。
下手だったり、怠け者だったり
どこかの部分で手を抜こうとしている場合が
多いんじゃないでしょうか。
まじめに仕事をしていれば、
絶対に利益は出るんですよ。

 まずは、後半の文書について。
 「動物を相手にしている人」の言葉だなぁと思う。どうもそんなに人間は強くないらしいから・・・。
 利益が出るとか言う部分に関しても極めて賛成だけど、世の中に対して声高に叫べるかと言えば、それは無理だな。下手じゃなく怠け者じゃなく何においても手を抜こうとしない人にいまのところ会ったことがない。
 そしてその度合いは、その人の個性そのものなわけで。すべて完璧なら人じゃなくてロボットでいいじゃん。と思う。
 だから、世の中には「利益」を出せない人はいる。そして、それは悪いことではない。と思う。むしろ、そこが重要なのじゃないかと・・・。(本題じゃないのに語りすぎなのでここまで。)


 で、この文章を読んで考えたのだが。きっちりした身なりが相手のためであることという自覚が足りない、もしくは無かったのではないかと。
 基本的に、中身が伴わないのに外見だけ良くしてどうする(中身以下の外見であるべき)。というのが持論だったけど。どうも自分よがりな考え方であったらしい。服装は自分の中身に合わせるんじゃなくて、相手に合わせるもの。(でもある。かな)
 ってことだな。

 そう考えると「貧乏な医者に診てもらうほど惨めなことはないからです。」っていうのは、すこし変で、貧乏な患者がいるなら、それに合わせた服装も必要になる気がする・・・。が、そこは動物病院だから、金持ち相手じゃないと意味がないか。
(ちなみに、この人とプライベートでご一緒したくない。)


 外に出て誰かに会えば、一緒に歩いたりするわけだし。せめて人と外出する時くらいは意識してみるか。。。
 ちゃんと冷静に手帳と家計簿眺めてみれば、服買う時間と金くらいはあるだろう。

 そして私の服装がいきなり替わるかと言えば、かなり怪しい今日この頃・・・。納得はしたので少しずつ努力します・・・。多分。。。
 って実はどこかで、似たような宣言した気がする・・・。金と時間がを裂かなかったために断念したような・・・。服に使う予算月3000円増額・・・・。うっきつい。クリーニング代・・・。あぁ。(貧)

2008年4月20日

上から目線

人間には不幸か、貧乏か、勇気が必要だ。
でないと 人間はすぐに思いあがる。 = ツルゲーネフ

 昔から責任を逃れる生活をしてきている。人前にたつこともなければ、責任が降りかかりそうになればさりげなく避けてきた。結局は自分が「できない」事を認めるのが極端に怖いのである。
 私が「独自なこと」をやるのは、オンリーワンなら絶対に人に負けないから選択しているだけだと言うことにはうすうす気づいてきた。
 常に知識や技能を蓄えることだけに時間を投じ、それを実際に使って責任ある事をしたり、自分の技能を人に見せたりはすることは巧みに避けている。そー言うところだけ妙に巧みである(苦笑)

 そして、頭でっかちの頭で、人のやり方を批判的な目で見て「あーすればいい」「こーすればいい」等と言うことを言うのである。いやはや。情けない人生ではないか。私が「言葉で嫌う」評論家とはまさに私のことだ。


 ツルゲーネフが言う勇気とは、「自分が情けない」と言うことを人におそれずに見せる勇気の事を言っているのかもしれない。


 と、こうして言うことは簡単だけど、結局怖がって私は逃げの人生を進んでいくのだろうか・・・。自分を変えられるだろうか・・・。「自分なんてホントになにも出来ない情けない人間です」と自分で認めて生きて行く精神力を私は有しているのだろうか・・・。


 私はしばしば人に説教がましいことを言う。自信過剰故に上から目線なのである。


 やっぱり私は情けない・・・。自分で認めざる終えないのも情けないし、それに対して「がんばって改善します」と前向きな事も言えないのも情けない。
 ・・・

 そしてこうやって自己批判をして、「自己批判をする自分は偉い」みたいなくだらない満足感を持とうとしているのである。
 と書くことによって、自己批判をしている自分を客観的に見れてます。みたいな所を他所にアピールしている。
 と書くことによって・・・(無限ループ)

 なんのこっちゃ・・・。胃が痛い。


2008年4月 7日

文章を書くこと

走り書き。論点が次々に変わっていく、相変わらず読みづらい文章です。
自分で読み返して、考え浅いやつだなーと思う。。。進化しろよ俺!


 こんな話をちょっと聞いた(意訳)

 日本の話で、昔『文字』が難しかった頃は、小説のようなモノがなかった。でも、簡単な文字(ひらがな?万葉がなとかいうやつ?)ができてからは、思ったことをつらつら書けるもんで、小説のようなものが発達した。
 そして現代、コンピュータはそれに拍車をかけている。

 そーいえば、中国発の有名な小説とか知らないなー。文字が弊害であまり発達してないんだろうか。
 まぁデータが無いことを適当に喋るのはやめとこうか。


 でもってついでにふっと思ったのが、みんな文章を書くようになった、ってのは良いことなんだろうか?

 その会話の中で「小説を読むことの意義」みたいな話もちょっとだけ出てきた。精神衛生に良いのかさえ怪しいぞ、文学って。。。
 持論的には、小説を読むことは「イメージ力をふくらませるのによい」と思う。
 でも、文章を読んだり、書いたりしてイメージばかりふくらませて、実際に触れなくなることは結構危険だなぁとか。バランスは必要だと思うし、多少イメージに偏りすぎて現実を生きにくくなっている人もちらちら見える気がする。

 よく誰かの顔を思い浮かべながら、ブログの記事を書いたりするけど。その記事を書き終えた時点で、その人の勝手なイメージによる人格が、自分の中にできちゃうわけで。自分でもこわいなーと思ったりする。


 最後に、哲学の世界では「人間とは、生きるために必要のないことをやっちゃう生き物だ(うろ覚え)」みたいな事を言っていた。
 小説や、絵画、音楽いろんな『文化』と言われる物があるけど、なんなんだろうかこれらって。確かに人間だけが、こーいう「生きるのに無駄そうな事」をやっている気がする。
 少なくとも、犬が人間を見てしっぽを振ることよりも遙かに無駄な事だろうと。その無駄な事にかなりの時間を費やしている・・・。

 人間が『文化』っぽいことを好む理由。気になるんだよなー。
 個人的には、『やっぱり文化を持つことは、種が保存されるために有利なことなんだ』という合理的な説明にいきついてみたいなぁ。


 まっ、言うまでもなく私はせっかく人間に生まれたのだから、無駄な事を存分に楽しんで死んでいこうと思うわけだが。


 おやすみ。

2008年2月 2日

説教

よい説教を見たのでメモ。
強調箇所は、反省点。(ほとんどだよ!)

昔、役者を目指して劇団の俳優養成所に通ってたことがある。
その時出会った講師の先生が超厳しかった。

・5分前には全ての準備をして、いつでも始められるようにしろ。
・遅刻、忘れ物をするような奴は信用できない。帰れ。
・稽古場に入ったら荷物を一箇所に集めろ。
・ゴミはすぐに拾って自分のポケットに入れ、後でゴミ箱に捨てろ。
・席を立つときはパッと立て。気をつけはキチンと背筋を伸ばせ。
・会釈は15度、敬礼は30度、最敬礼は45度で!
・座面の3分の2に腰掛け、背もたれを使わず腰を伸ばす。
・女子は座った時に股を開くんじゃない。膝をしっかり閉めろ。
・語尾を無駄に伸ばした頭の悪い話し方をするんじゃない。
・「~で~で」とグダグダ話すな。きちんと「ですます」で要領よく。
・おまえらは一般教養もなければ礼儀作法もできていない。
 悔しかったら、きちんと勉強して、せめて人並みになれ。

こんな行儀や礼儀から始まり、稽古でも厳しかった。

・1日2時間の自主練習も出来ないようなら、さっさとやめてしまえ。
・ミスを笑ってごまかすような人間は、さっさとやめてしまえ。
・台詞を覚える知性も備わっていないなら向いていない。さっさと(ry
・相手役のためにも出来る限りを頑張れ。出来ないならさっさと(ry
・言い訳をして恥じない人間は向いていない。さっさと(ry
・仕事をサボったり手伝わない人間は向いていない。さっさと(ry
・男子は力仕事を、女子は細かい仕事を率先してやれ。出来ないなら(ry
・男子で機械の結線や操作を出来ない奴は(ry
・女子で衣装の裁縫仕事や差し入れの弁当づくりも出来ない奴は(ry

正直、とんでもないところに入ってしまったと後悔した。
体育会系には全く縁のなかった自分には本当に苦痛だった。
ここまでうるさく厳しいと、本当に続々と生徒がやめていく。
入ったのは28人ぐらいだったが、前期で8人がやめていった。

後期になると、より厳しさは増して行った。
卒業公演の前など毎日のように怒鳴られた。
結局、卒業公演まで残ったのは、俺を含め18人だった。

以下略(ぁゃιぃ(*゚ー゚)NEWS 2nd

 これを人に言えるって、本当にすごい人だったんだろうなぁ。
 こんな風になれるようにがんばらねば。

2008年1月30日

ポジティブな規則とネガティブな規則

 やっぱり人を集めるブロガーはタイトル設定がにくい

ネガティブ・シンキングのすすめ

 記事の中で「シンキング」なんて言葉が出ていないのに、こんな言葉を使ってしまうんだもんなぁ。


 ところで、内容が面白かった。
 面白いなぁと思ったのは
「~してもいいよ」(積極的自由)
「~しちゃだめよ」(消極的概念)
 って言う二種類に規則が分類されるということ。(引用しようと思ったけど、ブログが難くなりそうなのでめんどいので本文見てくれー。)
 どっちがいいとはもちろんいえないのだろうけど、人によって「~してもいいよ」といわれると目が輝く人と、「~しちゃだめよ」と最低限を規定することで目が輝く人。二種類いるとは思う。
 少し意識すれば人を輝かせることができるかもなぁ。と少し思った。

 ちなみに引用もとの池田氏は、日本の志向が「許可」に頼る思考が多いので、それを「よろしくない」という意味でタイトルが「ネガティブ・シンキングのすすめ」になってるのかな。と思う。(長くない文章なので読んでみて頂戴)


 せっかくなので、大好きな「東京通信工業株式会社設立趣意書」(現:ソニー)の一部を例にとって見てみると、

経営方針

一、 不当ナル儲ケ主義ヲ廃シ、飽迄内容ノ充実、実質的ナ活動ニ重点ヲ置キ、徒ラニ規模ノ大ヲ追ハズ
一、 経営規模トシテハ寧ロ小ナルヲ望ミ大経営企業ノ大経営ナルガ為ニ、進ミ得ザル分野ニ技術ノ進路ト経営活動ヲ期スル
一、 極力製品ノ選択ニ努メ技術上ノ困難ハ寧ロ之ヲ歓迎、量ノ多少ニ関セズ最モ社会的ニ利用度ノ高イ高級技術製品ヲ対象トス、又単ニ電気、機械等ノ形式的分類ハサケ、其ノ両者ヲ統合セルガ如キ他社ノ追随ヲ絶対許サザル境地ニ独自ナル製品化ヲ行フ。
一、 技術界業界ニ多クノ知己関係ト絶大ナル信用ヲ有スル我ガ社ノ特長ヲ最高度ニ活用以テ大資本ニ充分匹敵スルニ足ル生産活動販路ノ開拓資材ノ獲得等ヲ相互扶助的ニ行フ
一、 従来ノ下請工場ヲ独立自主的経営ノ方向ヘ指導育成シ、相互扶助ノ陣営ノ拡大強化ヲ計ル
一、 従業員ハ厳選サレタル可成小員数ヲ以ッテ構成シ、形式的職階制ヲサケ、一切ノ秩序ヲ実力本位、人格主義ノ上ニ置キ個人ノ技能ヲ最大限ニ発揮セシム。
一、 会社ノ余剰利益ハ適切ナル方法ヲモッテ全従業員ニ配分、又、生活安定ノ道モ実質的面ヨリ充分考慮援助シ、会社ノ仕事即チ自己ノ仕事ノ観念ヲ徹底セシム。

 あまりにもすばらしい文章なので、つい経営方針全部引用してしまった・・・。基本的に「~はしてはいけない」ってのがおおいねぇ。というよりは「これをしろ!」「これをしろ!」ってな具合に、限定してる感じか。
 ってか、「お母さんの説教」みたいな文章だな(笑)

 偉大な文章すぎて、議論をする気がうせてしまった・・・。やっぱり心意気が大事だ(ヲイヲイヲイヲイヲイヲイ)

 「東京通信工業株式会社設立趣意書」読んだことない人はぜひ一度。読んだことがある人も今一度。
 今のご時世「真面目」って馬鹿にされる言葉だけど、やっぱり捨てたもんじゃないよなぁ。


 いろいろ以下書いてたんだけど、やっぱ適当なこと書けないので、リンクだけ張っておこう。
租税法律主義は死んだのか?【武富士税務訴訟逆転敗訴】
 この国は憲法さえねじまげて課税してくる。という話かな。

 個人的には、このブログの内容に関しては疑問な点が結構ある。また時間のあるときに判決文読んで、じっくり記事を練って見ようかなぁーと思う。

 ただ、国が法律を拡大解釈するようなことを続けると、日本人は本当に縮み上がっちゃうよ・・・。
 移転税制といい・・・。

 あぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー勉強する時間なくなった・・・。

2008年1月24日

考えたように体が動かない

「思ったように体がうごかへんやろ」

 とピアノのMarko先生の言葉。
 確かに、指が考えたように動かないんだよねぇ。結構これが新鮮な驚き。

 普段は体を使わず動くことが多いし。
 週一くらいの、ボケ防止と体力維持のためにやっている、水泳も体の動きに合わせて泳いでいるだけで、頭と体の違いを感じることはあんまりない。


 んで、指を上手に動かすために、毎日時間見つけては両手の指の動きの訓練をすることに(初!ピアノを前にしなくても出来ること)。体に覚えさせる。というよりは、体を躾るという感じだな。

あんた毎日毎日パソコンばかりいじくって、そんなことだから先生に怒られるのよ!

聞いてるの!?
耳がないから聞こえない?屁理屈ばかり言ってないでさっさと練習しなさい!

そんな事じゃ、いい脳みそに就職出来ないわよ!
今のご時世、いい脳みそに就職しなきゃろくなことないんだから!
指として産まれたんだから、それに応じて頑張らなきゃいけないでしょ!
今更、耳たぶとして生まれたかった。とか、三半規管のうずまきっぽいやつに生まれたかったとか言ったって叶わないんだから。
ただでさえ・・・(以下略

 頑張れ指。


 さて、「トイレでもやります」なんて、調子の良いことを言ってきたけど。「速メシ速グソ芸のうち」ってな奴で、トイレ中は無理そうだなぁ。とほほほ。
 お仕事中に動かしていると怪しいので、お昼の休憩時間にでもブログを眺めながらやりますかねぇ♪


2008年1月13日

人の評価

先日友達とメッセでこんな記事を見させられた。

【赤木智弘の眼光紙背】第14回:今年も流れは変わらないのか

 筆者の主張として大きいモノを抜き出すと以下かな。

 すなわち「金で買える」というのは、色のつかないフェアな計測基準としてのカネである。そしてこの「カネ」を「賃金」と読み替えれば、まさに賃金は「人間そのものの価値に対する査定」となる。つまり、より多くの賃金を得ている人間は、賃金を得ていない人間よりも偉いのだ。


 この文章を元に「人をいかに評価するか」と言う話になった。
 人にどのように評価されるか、と言う問題は、先進国であるこの国では、生きることの非常に非常に非常に大きなテーマであると思う。最大のテーマと言っても過言ではないかもしれない。

 そのメッセの場では自分の主張もぶれまくっていたので、ちょろっとこの場を使ってみてまとめてみる。
 ちょっと皆さんも考えてみると楽しいかもよ。

 以下は明細。(考えてみたい人はぜひ以下を見る前に。)
 長いので、結論だけ見たい人は最後のへんを見てください。

続きを読む "人の評価"

2007年12月25日

グーグル、無限への挑戦

グーグル、無限への挑戦

 工学部の学生をしていたころ、こーいうのを読んで得られる感情は「興奮」のみだった。
 ただ、今は少し複雑な感情を持つようになってきている。もちろんかなり興奮してしまうのだけど・・・。

 このグーグルが生み出す「便利さ」は確実に小さい会社の雇用を奪っていく。
 グーグルに誰か一人雇用され、その人が生み出すサービスで何千人という雇用が奪われていく。その姿が、税理士事務所という職場からみえてしまう。

 機械を使って「楽」になったのなら、その分人間が「楽」をすればよい。
 しかし、残念ながら現在の資本主義の下では、そうはいかない。「楽」をできるのは、それを作り出した人だけだから。

 今の世の中は「価値」を提供することでご飯が食べられる。
 しかし機械が高い「価値」を提供してくれるようになって来たので、人が提供すべき「価値」の水準が上がってきている。ぼけっとしてると、機械以上の価値が提供できなくなり、ご飯が食べられなくなってしまう。
 人よりも機械がいい思いをする時代が来ているといったら言い過ぎだろうか。


 と、資本主義を否定しても、残念ながらそれ以上の提案はできないんだけどね。


 私には今にもつぶされそうな会社に寄り添い、「価値」を提供できるようなお手伝いをすることしかできない。
 この無力感・・・。

 スローライフ。結構馬鹿にされがちな概念だけど、世の中を変える概念かもしれないなぁーと実は思ったりする。
 今、ピアノを弾いているけど、それだけでとても楽しい。これができずに年収3000万円の生活よりも、これができて年収500万くらいの生活がよいなー。(まだ高望みw)

2007年12月10日

異文化交流セミナー

 友人が実行委員を務める「異文化交流セミナー」と言うのに参加してきた。
 二年前にも参加。去年は定員オーバーで行けなかった。今年はいつの間にか参加になってたような感じ。
 趣旨は、「異文化交流について考えよう」みたいな感じかな。
 言語の違う二つの村を作る。そして、お互いが相手の文化を偵察しに行って、相手の文化について本国で報告しながら、次第に相手の文化になじんでいく。みたいなゲームとかをやってきた。

 参加者はほとんどが学生。そして当たり前だけど殆どが年下。
 『若いなー』と感想を持つかと思ったけど、思ったより最近の学生は老けている。自分の数年前って、見ているだけでも危なっかしい感じだったと思うんだけどなぁ(今も変わらないけど・・・)。めちゃみんなしっかりしていて、逆に怖かった。


 感じたことは『自分の意見を喋ること。そして人の意見を聞き出す事の難しさを実感した。』というのが大きいなぁ。(最近いつもこんな感じだな。)
 しかも、「感想」というとりとめのない意見を引き出したりせねばならず。そして雲のようなその感想を、まとめるという作業があったり。めっちゃ難しかった。
 あと、携帯電話の番号(女)とか聞こうと思えば聞けるのに、聞けない俺へたれ・・・。とか思った・・・。でも、めちゃ優秀な大学一年生の後輩(男)の携帯はGET。また鍋でも呼んで、仲間に引き入れてしまおう。


 もう少し書いてみようか。
 少し気になったのが、参加者が明らかに「成果主義の資本主義」よりも「なれ合いの村社会」に魅力を感じている点。資本主義の限界をみんな感じているんだなぁと。豊かなこの国の人たちは・・・。

 まっとにもかくにも、懐かしいノリで楽しかったYO!

2007年10月25日

表現の実践

 もう一昨日になるのか。鍋パーティーをした。
 みんな気づいてないけど、会の名前は「増田の会」。

 鍋パーティーの様子は、Para氏の描写が秀逸なので、そちらを見て下さいな(10/24の日記)。Paraさんの出来事の描写力は特にすごい!私も一生懸命鍋の様子を書こうとしてたけど、文章がまとまらなかった(><)ってか観察力の問題かも。


 で、このエントリーの本題。
 この鍋パーティーについては、前エントリーに書いたことを出来るだけ実行しようと、かなり意識して望んだ。
 今までは聞き役をこなすことが多かったけど、今回は「自分の考え(や疑問)を言葉に出す。」そんな感じの事を実行した。


 結構頑張った。いつもなら、抑えるであろう自分の意見を言ってみたり、相手にとって「気分良くないかもなぁ」と思う疑問でも、そのまま投げてみたり。

 その結果。うまくいきすぎるくらい上手くいった。かなり周りに助けられたと思う。この日記を見ていた人も数人いたのもあったのだろう。
 話をする中で、自分の(何も疑っていなかった)勘違いが明らかになったり普段聞けない人の意見が聞けたり。多すぎるくらいの発見があった。


 ちなみに、聞き役に徹していた時の様に、人の顔色をうかがったりする余裕はなかった(笑)会話に参加出来ない人はいたように思う。
 その中で、新たな発見だったのが、会話に参加していない人はそれはそれでかなり考えていて、最後に振るとかなりクリティカルで面白い意見がでてくる。と言うこと。

 人には、考える過程があって、そーいうのも上手く引き出す技術もあるんだなぁとも思う。
 どんどん考えが出てきて、喋りながら調整する自分みたいなタイプもいる。直接聞くよりも、前で勝手に議論や自説を並べてて、最後に喋らせた方がいい人もいるんだろうなぁ。

 ちなみに、Para氏について日記を見て驚いた。
 全く別の人と話をしていて、こっちの議論は聞いていないと思っていた場面があったのだけど、実はしっかり聞いていたらしい。


 この鍋を通して、大学時代、もっといろんな人といろんな話が出来たんだろうなぁと思うと、とても惜しいことをしたと思う。


 あとは、自分が聞き役に徹していたのは「自分天才」と思っている部分があったんだと実感。「人の考えなんて解らない」なんて口で言っても、頭で理解していなかった。
 やっぱり、会話してみないと解らない。


 この文章の発散度がすごい。
 この鍋については言いたいことがいっぱいあるのだ。気づいたことが。

 「自分の意見を表現する」と言うことに関しては、やっと初めの一歩を踏み出したのだと思う。
 これから先、人を傷つけたりするのだろうか。相手に伝わらず悔しい思いをするのだろうか。
 茨の道が見える気がする。

 でも、もっともっといろんな事を深く考えて、知って行ければなぁと純粋に思う。聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥ってなやつを実感した。

 私はこれから、どんどん喋ろうと思う。なので、みんなも自分の意見を出して欲しいなぁと思う。当たり前だと思っていること。幼稚な疑問だと思うこと。どんどこどんどこ。

(文書更正し直したいところだけど、まぁーいいや。)

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2007年10月22日

表現力

追伸:
> 私が聞き役に徹している時は「自分の評価を高めよう」と思ってやっている感が強いです
 はやっぱり書きすぎだ。そう言う時も多いけど、興味持って聞きまくっている時もある。少し自分を落としすぎ(汗)


今日は
「爆笑問題×東大」東大の教養
つーのを見た。


 今自分が飢えているのが議論だなーと思った。(番組の内容が言っていることとは大分違うけど)
 そして、それが今できないのは、人に話そうとしないからだし、人に伝える力も身に付いていないからなんだと思った。
 このブログは、所謂「身内ネタ」に走らないように気をつけているつもりだし、日記みたいに出来事を並べることも控えている。
 で、一般の人にも興味をもってほしいなぁーと思って書いているけれども、未だにアクセスは10程度・・・。かなり表現力がないのだなぁと、改めて実感する。


 大学時代は聞き役が得だと思って行動してきたけど。それじゃ面白くない。
 聞き役は、相手の考えを引き出したり相手に「自己満足感」与えるのには非常に有効。そして最終的に人を動かすことにつながる。
 誘導尋問の用に質問を操りながら、自分の考えを埋め込むのが、人の考えを動かすのに一番だと思っている。もちろん、未だに効果的に使いこなせるわけじゃないけど。

 本音を言っちゃえば、私が聞き役に徹している時は「自分の評価を高めよう」と思ってやっている感が強いです(言っちゃった・・・。)


 ただ、それじゃ、こっちの考えが全く広がらない。聞いていく中で「ほぉー」と思うこともあるけど、「同意」を基本として聞いているだけでは、あまり浸みてこない。
 現在、本音の姿勢で議論できるのは本くらい。

 正直、現状「他人は自分の議論に興味をもってくれない」と思っている。
 あとは、自分が滑稽に見えるのが怖いのかな。
 しかし、他人が聞いてくれないと思っているのは、自分の表現力や表現したいと思う意欲が足りないからで、相手のせいじゃないかもしれない。

 人と議論してみたいと思い始めた。議論までならなくても、人に自分の考えを伝えてみたいと少し思い始めた。ちょっと人に考えをぶつけてみようかなと。
 特にここ一年くらいの、思想の変化はものすごいので、話し始めると止まらない気がする。
(今思えば、高校時代は毎日のように話しまくってたなぁ・・・)


 ブログでの表現を高める努力は、リアクションも見えなくてやりにくいので、もうちょっと見送り(笑)
 まずは実際に会って、話しまくってみたいなぁ・・・。話したいことリストや、感動したことリストでも作ってみるか。


 もしこのエントリーを見て、「思うところある人」は飯でも誘って下さいな。分野を超えて議論を戦わせてみませんか(笑)
 「同意」からではなくて、批判的な態度で行きますw

2007年10月21日

モノポリーをしての自己嫌悪

 さっき元バイト先のイベントでモノポリーをしてきた。
 そして帰りがけに思った事、主に2点。
1.人のためを思ってやっても、余計なお世話かも
2.人の幸せを勝手に決めつけて、その物語のシナリオを全部作って実行してしまう。そして、それに反する人がいたら、「なんでわしの言うようにしないんだ!」と思っている自分がいる。

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2007年10月20日

光とは

 光ってのはナンなのか。
(将来見る自分へ。前置き長いから。さっさと下までとばして読むと良いよ。)

 人に明るい世界を与え、前へ進む道を示すもの。
 宇宙の神秘を考えるきっかけを作ってくれるもの。
 喜怒哀楽のきっかけとなるもの。

 宇多田ヒカルは最高だ!(とりあえず言わなきゃ)


 今さっき、気づいて爆笑した事があって。

 ここ数年宇多田に大はまり。まずは歌声にはまり、歌詞に泣かされ、ライブで喚起させられ、宇多田が綴る日記から伝わってくる考え方に触れて、(日記から感じ取れる)人間性までも大好きになってしまった。
 宇多田が、言う「好き」とか「考えさせられた」という言葉に大きく影響され、いろんなモノに手を出してしまっている。

 そしてここ数ヶ月、爆笑問題に大はまりしている。特に「爆笑問題のニッポンの教養」であるとか「爆笑問題のススメ」とかに。
 番組の中では、太田が誰を相手にしようが、考え抜いた自分の考えを喋りまくり、相手に喧嘩を売る。そして、ゲスト達は、半分向きになって自分の考えを話し始める。その議論は常に「専門分野」の枠を越えて、哲学的な話になっていく。
 ここ数ヶ月めちゃ影響を受け続けている。


 そんな二人。気づけば名前が「光」なんだな。
 ここ最近「光」を追い続けている自分に笑った。

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2007年10月12日

自由を与えてくれるモノ

ふっと。思った。


以下の質問に答えてみて欲しい。
----------------------------------------
★もし明日死ぬとしたら今何をしますか?
★もし1ヶ月後死ぬとしたら今何をしますか?
★もし1年後死ぬとしたら今何をしますか?
★もし5年後死ぬとしたら今何をしますか?
★もし10年後死ぬとしたら今何をしますか?
★もし20年後死ぬとしたら今何をしますか?
★もし30年後死ぬとしたら今何をしますか?
・・・
★もし100年後死ぬとしたら今何をしますか?


 とやっていった時に、
 今自分が取っている行動と同じになる●●後っていつですか?

----------------------------------------

 ありきたりな問いではあると思うけど、結構面白い問いだと思うんだ。我ながら

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2007年10月10日

定義

 この前「定義」と言う言葉の意味にが解らなくて困った。調べてみるとどうやら、その場で周りの人たちが言っていた意味が正しかったようだ。。

大辞泉:定義

1 物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること。「敬語の用法を―する」
2 論理学で、概念の内包を明瞭にし、その外延を確定すること。通常、その概念が属する最も近い類と種差を挙げることによってできる。

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2007年10月 9日

喧嘩をふっかける

 ふと思いついてしまったので、家をでる時間をごまかして書いてみる。
(注:本日は自分のことを完全に棚に上げて記述しています。)


 会話をしていて「攻撃的な会話」をする人がいる。自分の意見を「正しい」と信じて前面に出してひたすら喋りまくる。または人の言葉を徹底的に批判したりする。その他場の空気を凍り付かせるような事を言う。また、その他いろいろな「無思慮」な態度をとる人がいる。
 そう言う時は、話の誘導や話題が適切でなかったと反省して、会話の主導権を握っている時なら話題を変えたりしながら、どうしてもダメなら、面倒なので言葉量を減らして会話から脱落する。(人数が増えれば増えるほど最初から脱落していることが多くなるw)

 ただ、一見浅はかなひどい内容を誰かが発したときに、なぜかみんなが自分の意見を主張し合って結構面白い会話になったりすることもある。
 これって、今の今まで案外意識してこなかったなぁーと。

 でね、ふと思ったんだ。たまには、会話の中で自分がしっかり持っていない考えでも、適当に話題をふっかけてもいいのかもなーと。
 ちょっと疑問提起系の本とかTVとか今後見る時気をつけてみよう。

 んー最初書きたかったことと、結論が代わってしまった。
 最初は「無思慮な発言をするやつに、その場でそのまま喧嘩をふっかけてみよう」と思ったんだけどなぁ。やっぱりそれは、私には難易度が高い・・・。

2007年9月23日

なぜ私は生きるのか

 少しBlueなブログを書いている貴方に捧げよう。私は貴方の事はほとんど知らないけど、まーいいじゃないか。お節介するのも趣味ですから。
 ちなみに、私だれか解るよね?新聞部の破滅的創設者です(笑)


 私、たかだか23歳。今自分に紡ぎ出せる言葉を書いてみる。

 私もまた死にたいと思ったこと数百回。
 周りに「死のうかなー」アピールしたこと数十回。
 交差点で赤信号につっこむ車を待っていたこと数回(せっかくなら賠償金欲しいし)

 結局死ぬのが怖くて死ねなかった。
 あとは、育ててくれた母親のタメに死ねなかった。


 でも、ここ1~2年、少し「死」を考える時の感覚が変わってきた。

 死のうと思った時に
「どうせ死ぬなら、好きなことやってから死にたいな」
 と思うようになった。

 好きなことっていうのは、好きなミュージシャン(もちろん宇多田)のライブだったり、美味しいモノを食べることだったり、好きな本を読むことだったり、ちょっと学問することだったり、女の子とお茶したり。ほんの些細なこと。税理士を選んだのもその一つだけど。
 「死」を考えていない時は、いろいろな柵(しがらみ)があるから、やりたいことって封印されている。お金がない、学校がある、将来の安定、相手に彼氏いるし(笑)等々。でも、「死」まで考えると、そんな柵破り捨てて、好きなことが出来るんだな。

 どうせ、誰にも期待されていないし。

 周りに迷惑がかかるというなら、バイトして海外のだれもいないところで、プラプラすればいいし。「死」という言葉が生み出す自由って、凄く大きいと思う。


 世の中に必要な人間などいない。今ブッシュが死のうがホーキング先生が死のうが時は流れ続ける。時速一時間くらいの速度で。安倍が辞めて責任云言ったって、何も無かったように日々は続く。
 貴方が死んでも、友人は一年もすればほとんど忘れて楽しく暮らしているだろうし、親が悲しみ続けてくれれば万々歳だな。
 私は、社会に生の意味を求めるなんて馬鹿らしいと思う。誰かが悲しむから生きる。んーどーかね。


 好きなことを好きなようにやり始めて見えてきた新世界。これは、こんなしみったれたブログに書くよりも味わって欲しいな。
 本当に死のうと思う時は言ってちょうだい。有り金使って海外旅行しませんか?
 死ぬのがあほらしくなるような風景を見よう。
 つき合おうじゃないか。

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2007年9月18日

寂しい

 秋っぽくなってきましたね。食べ物は美味しいし。
 先日、先輩と居酒屋に行ったのですが、そこで食べた秋なすは最高でした。
 特にフライがGOOD。

 宇多田がカバーした曲は
「フライ me to the moon」
 なんのこっちゃ。

 ところで、

「実は私、少し旧型のロボットなんです。」

 こんなこと、誰かに告白されたら・・・例えば私がこんな事を言ったら、友達で居続けてくれますか?


「褒めてもらえると笑顔になるんです。
『悲しい』と感じた時は涙も出ます。」

 感情があるってどういう事なのでしょうか?


「2000年に製造されたと聞いています。
記憶は1984年に生まれたようにインプットされています。」

 記憶って、後からでも作れますよね。
 昔の写真見たり、人と話をしながら、記憶を作ったことあるでしょ?


「いつも見てもらってるブログ。
あれは一日の予定を入れると勝手にパソコンが書いてくれるんです。
楽な時代ですよね。」

 今の技術があれば、人を模した文章を書くなんてお茶の子サイサイでしょうね。


「あっ!コメントはちゃんと自分で返信してますよ。
やっぱりコメントもらうと『嬉しい』と感じるんです、
気持ち込めて返信したいですよ」

 気持ちねぇ。


「ところで、貴方はいつ頃製造されたロボットですか?」

 自分がロボットでないことを、確認しましたか?

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2007年9月12日

人間の定義(自己流)

 人間の定義


 石黒さんの言葉(ちなみにこの人

 結局人間が生きる目的ってのは、二つしかないと思っててね

・人間とは何かってのに興味があってそこが知りたい
・原子分子っていうか、物事の起源っていうのかそこを知りたい

 この言葉をヒントとして考えてみた。

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2007年9月11日

人間とは

はて

人間とは、なんじゃらほい

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2007年9月 5日

自由的な物と継続的な物

A:「今やりたいことをやるべきだ!今を楽しむことが重要なんだよ!」

 欧米か!
 どちらかというと、私が好きな種類の言葉。
 アメリカに留学したことある人や、見るからに自由そうな人がよく言い、共感してくれる言葉。

B:「一度決めたことは最後までやりぬくべきだ!それがカッコイイだろ!」

 友達の多くはこのタイプ。これができれば日本では評価されやすいと思う。
 こー言う人は地味だけどかっこいい。


 夏の間この二つの価値観がずいぶんせめぎ合った
 自分自身すべての責任を負うAほどの勇気はないし、実際すべてをなげうってまでやりたいことってない。かといって、Bを貫き、すべての自由を放棄してまで一つのことをやり抜くというのは私の性格的にどう考えても無理。
 今までちゅーと半端に、行ったり来たりしてきて、結局なんもかんも中途半端だ。

 と、悩みながら、いろんな人の話を聞いていると、大小の差はあってもみんな同じように悩んでいるのかなぁとも思う。特に私は「自由最高(A)」の話をしたがるので、(継続は力なり(B))思考の人が私を見て「現状でいいのか」って不安になってるなぁーって思うことが多い。

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