少しBlueなブログを書いている貴方に捧げよう。私は貴方の事はほとんど知らないけど、まーいいじゃないか。お節介するのも趣味ですから。
ちなみに、私だれか解るよね?新聞部の破滅的創設者です(笑)
私、たかだか23歳。今自分に紡ぎ出せる言葉を書いてみる。
私もまた死にたいと思ったこと数百回。
周りに「死のうかなー」アピールしたこと数十回。
交差点で赤信号につっこむ車を待っていたこと数回(せっかくなら賠償金欲しいし)
結局死ぬのが怖くて死ねなかった。
あとは、育ててくれた母親のタメに死ねなかった。
でも、ここ1~2年、少し「死」を考える時の感覚が変わってきた。
死のうと思った時に
「どうせ死ぬなら、好きなことやってから死にたいな」
と思うようになった。
好きなことっていうのは、好きなミュージシャン(もちろん宇多田)のライブだったり、美味しいモノを食べることだったり、好きな本を読むことだったり、ちょっと学問することだったり、女の子とお茶したり。ほんの些細なこと。税理士を選んだのもその一つだけど。
「死」を考えていない時は、いろいろな柵(しがらみ)があるから、やりたいことって封印されている。お金がない、学校がある、将来の安定、相手に彼氏いるし(笑)等々。でも、「死」まで考えると、そんな柵破り捨てて、好きなことが出来るんだな。
どうせ、誰にも期待されていないし。
周りに迷惑がかかるというなら、バイトして海外のだれもいないところで、プラプラすればいいし。「死」という言葉が生み出す自由って、凄く大きいと思う。
世の中に必要な人間などいない。今ブッシュが死のうがホーキング先生が死のうが時は流れ続ける。時速一時間くらいの速度で。安倍が辞めて責任云言ったって、何も無かったように日々は続く。
貴方が死んでも、友人は一年もすればほとんど忘れて楽しく暮らしているだろうし、親が悲しみ続けてくれれば万々歳だな。
私は、社会に生の意味を求めるなんて馬鹿らしいと思う。誰かが悲しむから生きる。んーどーかね。
好きなことを好きなようにやり始めて見えてきた新世界。これは、こんなしみったれたブログに書くよりも味わって欲しいな。
本当に死のうと思う時は言ってちょうだい。有り金使って海外旅行しませんか?
死ぬのがあほらしくなるような風景を見よう。
つき合おうじゃないか。