人物伝『伊藤博文』瀧井一博

どうも歴史にはとても疎くて「伊藤博文=初代総理大臣」くらいの認識しかないのですが、なかなか面白かった。
 
1841年9月2日に山口県にて生まれる
(1867年10月14日大政奉還)
1868年6月27日(27才!)兵庫県知事へ
1885年12月22日内閣制度を創設し初代総理に
1889年2月11日大日本帝国憲法発布
1909年10月26日ハルビンで暗殺される
 伊藤の重要な功績は憲法を作りそれを定着させたこと。東アジアにおいてこのような国は無かったため、他の国に行っても憲法を定着させた男として、重要な扱いを受けることとなる。
 漠然とだけど、大久保どんや西郷どんの話を聞くと、政治力!や武力!を重視していたように感じるけど、伊藤どんの場合は知力を重視していたように見える。他の重鎮が国内に留まって「政治」に腐心しているなかで、伊藤はあえて海外に勉強しに出たりする。これってかなりのリスクですよな。知識を得るために大きなリスクを取る伊藤博文というのは相当すごいのでは。と思うわけです。
 伊藤の人生ははじめっから最後まで政治は大荒れに荒れていたわけだけど。その中で何度も海外に行っている。当時は船で行くために数ヶ月かかるのにも関らず。憲法制定の前なんかにも。いまの情勢で例えるなら、民主党や自民党の幹部が自然エネルギー政策を学びに、数ヶ月の期間でメールも届かないところにでかけるようなもんだろう。仲間から「クソ大変なときになにしとんねん」という批判もあるだろうし、帰ってきたときには自分の座る椅子がない可能性も大いにあるだろう。それでも知識を得るために外国に行ってしまう。
 きっと若い時代に「留学」したことが後の自分の地位や人脈に大きく関わってきたことで、勉強が如何に大事かというのを実感ししていたんだろう。

 伊藤が23才くらいで1863年攘夷運動がピークのこのころ長州藩は西洋に5人の藩士(俗に長州ファイブ!)を留学させることにする。もちろん伊藤はノリノリである。吉田松陰パワーだろうか長州藩の学問に対する意識の高さに恐れ入る。伊藤が日本初の留学生だそうで。
 これらの経験(語学力含む)のおかげで、伊藤は日本の外国人とのコミュニュケーションの要として活躍するようになってくる。兵庫県知事になったのもその流れで、「税関業務や居留地監督を請け負う日本外交の最前線」であったから。

人にはそれぞれの考えというものがあり、それゆえに議論が百出するのは天の然らしむるところであって、その人の思想を無理に変えさせない現下の文明国の習いというものである。とはいえ各人の意のままに任せれば、百家争鳴して国が転覆することになるであろうから、礼儀教育や法律による制限が不可欠となる
「木戸文書」作者解説部分(原文は省略)(P17)

 憲法を作った人が言うことだから重い。しかし、この制度が作られる時代、即ちそこら中で意見の押し付け合いが起きているところで「その人の思想を無理に変えさせない現下の文明国の習いというものである」と言えるのは相当だ。

 伊藤は立憲制を確立されるために、かなり長々と準備をしている。
 1871年の段階で大蔵省に「出金には全部領収書付けて帳面つけろ(P27)」てなことを言っている。これは、後に国民の代表を集めそれを監査させるためだという。
 1886年に帝国大学を作る。その帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)の中に、国会学会という組織が作られ、これが「わが国初の政策シンクタンクの意味合いをもって創設されたものだった(P70)」。
 1888年に枢密院が創設。最初は「憲法典や皇室典範の草案を審議するために設けられたものであったが、伊藤はそれをさらに天皇の政治的行為のための諮問機関として位置づける。(P70)」これは、主権者であった天皇については、枢密院を通していただくことで政治に対する権力を制限しようと言う考えだったようだ。

 とまあ、じっくりと準備を進めながら1889年帝国憲法制定。
 ここから、伊藤は全国行脚をして憲法を広めることに腐心する。
(中途半端な状態で公開。多分つづく)

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