どうも、クライミング(ボルダリング?)をしていて、落ち方を間違えまして、大変に腰が痛うございます(><)いやはや、宇多田ライブに税理士試験と、調子にのっている今日この頃、イイ刺激であります。
税理士試験合格についても、ちょこっと文章書きたいのだけど、まーまた後日。
(注:私はキリスト教徒でもなく、興味本位で聖書を読んでいるだけなので、以下の内容に正確さは全くございませぬ故、ご了承下さい。)
ちょっと聖書に飽きてきたので、予習も加えながら読むことにしてみた。以下予習と復習がまじっとります。
参考元
・ルツ記 – 聖書を読んでみよう
・落穂拾い – Wikipedia
・ボアズと買い戻しの権利 – 高林キリスト集会
・ルツ記 – Wikipedia
さてはて、このルツ記をざくっと説明すると、
ナオミさんという女性がいました。(ナオミ・キャンベルもここからとったらしい)
旦那はエリメレク、息子はマフロン、キルヨンという二人がいました。息子二人は、モアブ人のオルバとルツという嫁を貰いました。しかし、旦那と二人息子はナオミさんを残して死んでしまいました。
ルツは姑ナオミさんの元に残り、ナオミさんを助けることにしました。
で、ルツが飯のために落ち穂拾いなんかをしていると、たまたまその場所がエリメレク一族のボアズさんの土地でした。なんやかんやあって、ルツはボアズさんと結婚して息子のオベド(ダビデのじいさん)を産んだりしつつ幸せに暮らしました。めでたしめでたし。
どうもルツ記のポイントは、タイトルにもなっているルツさんがイスラエル人ではない事らしい。だいたいが神に守られているイスラエル人が主役であり、あとは端役なんだが、ここではモアブ人のルツさんが主役と。モアブ人でも姑を大事にして主を慕えばそれなりに幸せになれますよってことかな。ただ、以下にもあるように主は登場してこないし、それくらいの扱いってことかもねえ。
実はルツ記には、神は登場しません。人々の会話の中などには「主【ヤハウェ】」という名前が出てきますが、神であるヤハウェが何事かをしたという記録はないのです。ですが登場人物たちは、神ヤハウェに信頼し、ヤハウェにゆだねて生活しています。創世記から士師記までが「神ヤハウェが何をしたか」の書であるとするなら、ルツ記は「ヤハウェを神とする人々がどのように生きていたか」の書であると言えます。
ルツ記がヘブライ語底本つまりユダヤ教の聖書では「諸文書」というカテゴリの5番目に、雅歌と哀歌の間に配置されているのも、このルツ記の文学的な価値を認められてのことなのだろうと思います。
ルツ記 – 聖書を読んでみよう
あとそう言えば、落ち穂拾いの場面がでてくるらしい。例の絵の奴ですよ。(とはいっても聖書との直接的な関係はなさそう)
⇒落穂拾い – Wikipedia
穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。
レビ記19章9-10
この規律に従い、畑の主は落ちた穂をあえて拾わずに残していたんですな。貧しい人やよそ者に分け与えるという立法をしていたわけだ。まー微妙な社会保障って感じがするけど。
で、こーいう話を元に、落穂拾いの絵にもつながっていくわけですなあ。
聖書ためになるねー。
すうぇーでんの、けいさんっていうおんなのひとが、せいしょはしんじつとしてではなく、「おもしろいよみもの」としてよむべきだっていってたよ!
(『児童の世紀』の中で)
因みに、ミレーの『落ち穂拾い』、山梨県立美術館にあります。
是非見に(以下略)
あああ、間違えた。
県立美術館に「ホンモノ」があるのは『種まく人』の方でした。
ハズカシイ……orz
えっ、せいしょってしんじつじゃないのですか!?
とかいうと、変なものがつれそうなのでほどほどにして
聖書自体は真実かどうかおいておいても
事後的に影響を与えてるのが結構面白いと思ったり
> あああ、間違えた。
今、ちょろっとWikiっていたらどうも間違ってないですよ
ほぼ同じ構図という「落穂拾い、夏」(なんか連ドラのタイトルみたい)
なのがヤマビ(山梨県立美術館)に
あるみたいじゃないですか!
丁度ミレーもエレン・ケラーもケインズもマルクスも
丁度その頃の産業革命の流れから色々感じて
考えてたんだなーと思うと色々面白いですなー