Category Archives: 文字を読む

『行人』夏目漱石

 新海誠『言の葉の庭』にえらく感動しまして、作中で表紙がひょろっと出てくる漱石さんの「行人」も読んでみています。
 まだ読んでいる途中ですが。その中でちょろっと面白い表現があったのでメモ。

 物語の本筋は全く違うところを流れいきそうですが、その挿入の話として。
 ある娘さんが三沢という家の仲人で嫁いだのだが、精神病になって元の三沢家に引き取られることになる。引き取られた後、その娘さんは毎日三沢が出て行くときには「早く帰って来て頂戴ね」と、もしそこで黙っていると何度でも「早く帰って来て頂戴ね」と繰り返すのだと。
 その解釈をめぐって、概ね登場人物は可哀想な娘さんだねと言う感じなのですが、ちょっとページを隔てて、主人公の兄、一郎がこんなことを言い出す、

「ところでさ、もしその女が果たしてそういう種類の精神病患者だとすると、凡て世間並みの責任はその女の頭の中から消えてなくなってしまうに違いなかろう。消えてなくなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶よりも遙に誠の籠った純粋のものじゃなかろうか」(P105)

 ほほほう、精神病という題材使ってこんな捉え方をしてしまうのかと。まーそれだけ人間の本来の気持ちは「世間並みの責任」によって押しつぶされているんだと、上手いこと表現しよるなと、なるほど感心してしまったわけです。
 というか1913年くらいにこんなことを書いていたのかとも。約10年後にドグラマグラがでちゃうくらい、精神病に対する理解はまだかなり苛烈な時代だったんじゃないかとは思うけれども。この時代にしては精神病を肯定的に捉えているのですごいのかも?もちろん今こんなこと言うとむしろ問題発言でしょうが。ちなみに「カッコーの巣の上で」の原作小説は1962年なんですな。

『日本の童貞』渋谷知美

 中々ショッキングで面白い本でした。とりあえず童貞の定義から始まる。
 そもそもは修士論文らしく、非常に丁寧に歴史が調べられていて、論文として美しくて。
 なるほど、童貞などと言うところから見ると、男女の性の意識、互いに対する認識「女は家にいろ」みたいなのが、色濃くでてくるなと。色々な背景知識として面白いなと、以下長くなるけど、かなりお勧めの一冊ですわ。

 ではちょっと長いけど、1920年代の東大生の言葉

(P27)ほんとうに童貞は私が愛人と結婚する時に私が最大の歓喜をもって、私の妻に捧ぐる贈物であらしめるつもりです。私は私の愛人の処女たることを礼讃すると同時に私の童貞もが彼女によって礼讃せらるることを希望します〔略〕最高にしてしかも対等なる尊さ、純真さをもって二人は相抱擁することが出来やうと思ひます。是処にこそ真の真の夫婦なるものが理解されて存在するのではないでせうか〔略〕こんな意味で来る可き私の結婚を輝しき光にみちたるものとして胸をおどらして待つて居ます。

 このころ、女性は処女であるべきとされる一方、男性はいろんな相手とセックスをすればいい(これを性的放縦(ほうしょう)というらしい)とされていたそうな。さらにはこのちょっと前1870-1910年代は、男色(なんしょく)も普通だったとか。
 それは法律でも同じように適用され、女性の拒否によるセックスレスを原因に男性側が起こした離婚訴訟で次のように裁判所が判事したという。

(P30)女子の貞操の喪失、すなわち其の純潔の喪失に対する社会的評価と男子の童貞の喪失に対するそれとの相違にに基づくものであって、之を同一に評価することは法律上妥当しない。

 さらに1920年の雑誌『性』の「男子も貞操を守るべきか否か」をに問うアンケートで、男性論者のほとんどが「男女とも貞操を守るべし」と述べていると。1910~1920年は男子も貞操の時代なのだ。
 そこで現れたのは平塚ライチョウ。「花柳病男子結婚制限法」の請願やら、「花柳病男子拒婚同盟」やら、風俗関係でなりそうな病気になると結婚できなくさせようぞ。と。これに与謝野晶子が反論する・・・。とこの辺が非常に面白いのだけど、書いてたらきりがないので、紹介までに
 なんかこの時代本人たちはイタって真面目なのでしょうが面白い。こういったことを喧々諤々議論していたんだなあと。

 この「童貞守っていこうぜ!」という時代は、1960年代まで続くが少しこの辺りで代わってくる。変わる直前は

(P111)実際、ビックリしました。こんなに童貞のヒトが多いなんて・・・・・・。男性って、みんな勝手な事をしてて、そのくせ女性には処女を要求する――と考えてましたけどねえ。これからは、独身男性を見直さなきゃ」

 もちろん、童貞が褒め称えられてはいるけれども、男は相変わらず遊び人もおおそうではありますね。
 で、ちょっと雰囲気が変わる1970年男子

(P114)そんなことをしゃべるんですか?困っちゃうな。たしかに未経験ですよ。そんなこと、どうだっていいじゃないですか?第一、友だちにも隠してるんだ。いまさら童貞だなんて、カッコ悪くていえやしない(略)やりたいなあ。一度経験しちゃうと、ずいぶん気が楽になると思うんだ。童貞って、ほんとに自慢できるもんじゃないと思うよ。重荷だもん。童貞ということばにまで抵抗を感じることがあるな。

 1970年に青春を過ごした世代はちょうど今60才くらいだろうか。風俗でいいから童貞捨てて来い。みたいなことを言うおっさんはこのあたりからできてるんですな。

 と、そして、ご存知のように、現代への流れに繋がってくる。今は、多少「童貞だっていいじゃない(み○を)」みたいな、慰めてるのかけなしているのかよくわからないような時代ですわな。
 なんとなく、今の時代、昔から比較してみれば「童貞」には「駄目な男」という刷り込みかなり強くはいっているんだなと。
 私は理系の単科大学出身ゆえ、私を含め女性経験が少ない輩が少なくなかったわけですが、これが優秀で、卒業後7~8年で十組以上結婚しているはずだけど、離婚の報告は聞かず。円満な家庭が多い。おまけに転職も少なく収入も安定している人が多い。
 そりゃそうだ、ナンパの仕方も知らず、学生時代勉強やら趣味に打ち込んできた輩だ。その辺は堅い。

 そもそも日本は街ぐるみでの筆おろしとか、お見合いとか、童貞(処女)をわざわざ捨てる必要のなかった国であるはずで、男も女も性に開放的であるほうがカッコイイというような、ちょっと背伸びして無理してるのかも知れないね。
 もし、この「童貞」に不利な世の中が続くのであれば、親は子どもに「異性と遊んで来い」と、ちょいと変なアドバイスで教育しないと、まともな配偶者さえもらえない、なんて事になりかねない(笑)。やっぱり「勉強っておもろいやろ!」「趣味に大いに打ち込みなさい!」と言える社会がいいよねえ。

ものづくりが変わる?⇒『MAKERS』クリス・アンダーソン

 3Dプリンターの話がちょいちょいでるので勉強がてら。
 と思ったのだけど、まず
 ちょっとwikipediaのこの文章に笑いつつ。

このような論争にも関わらず、『Free』の印刷版はニューヨーク・タイムズのベストセラーリストの12位でデビューした。一方、無料のデジタル版は300,000近くダウンロードされ、本書の提唱するフリーミアムに信憑性を与えるものとなった。

 Freeという本を出して、その本自体がFreeを否定してしまったと。まあなんでも複雑な条件があって初めて成り立つことやね。

 とりあえず、3Dプリンターを持っていると、設計図を入力するだけで、うい~んと機械が動いて3Dの物質を作り出すことが出来る。と。
 このムーブメントには3つの特徴がある(P32)

    • デスクトップのデジタル工作機械を使って、モノをデザインし、試作すること(デジタルDIY)。
      それらのデザインをオンラインのコミュニティで当たり前に共有し、仲間と協力すること。
      デザインファイルが標準化されたこと。おかげでだれでも自分のデザインを製造業者に送り、欲しい数だけ作ってもらうことができる。また自宅でも、家庭用のツールで手軽に製造できる。これが、発案から企業への道なりを劇的に縮めた。まさに、ソフトウェア、情報、コンテンツの分野でウェブが果たしたのと同じことがここで起きている。
  •  印刷機の発明とかそっちではなく、ソフトウエアのオープンソースとかそっちやと。

     あとは、著者お得意のロングテール(P113)

     高品質な品物を少量だけ生産し、手頃な価格でそれを販売できるようになれば、経済は破壊的な影響を受ける。そしてここに、アメリカの製造業の未来がある。
     3D印刷のようなコンピュータ化されたもの作りのプロセスは、コストをかけずに複雑さと品質を実現してくれる…これまでの紙のプリンタは、ただの円もモナ・リザも、同じく簡単に印刷できた。3Dプリンタにも同じことがいえる。

     未来の話としては面白い気がする。少量生産というのがポイントかも。

     いや、非常にクリエイターになりやすい、しかも起業家としてもやりやすい時代になったということは、しっかり意識したいね。

    『深い河』遠藤周作

     久しぶりにひっそり更新。相変わらず書いた内容は支離滅裂…。
     ふと「Deep River」と言う曲は、この遠藤周作の「深い河」からインスピレーションを受けているのだと知り、色々思うところもあり、手に入れた本でした。

     まーこのブログも書かない数ヶ月。いろんなことありましたわー。うーん。経験と言うのはつまねばならんね。ほんま。まだあと80年は経験積まないといかんわ。

     インドツアーが催され、そのツアー中に複数の主人公がいる。
     宗教を考えたこともないのに妻の死をきっかけに転生と向き合わされた人だったり、自分が臨死体験をして代わりに死んでくれた(と思っている)鳥に感謝するためにインドに来ていたり、色々なそれぞれの死生観を絡めての葛藤が面白い。宗教に肉欲も絡み、非常に純粋なお父さんの奥さんへの愛とか、動物への愛とか、戦争のPTSD的なものとか、色々ごちゃごちゃしているけれども、そのおかげで飽きさせず非常に読みやすくて面白い本でしたよ。今の自分の境遇とかにも色々重ね合わせられる面もあったりして。

    以下特に支離滅裂。

     個人的にはその中でも大津という日本で育ったカトリック教徒が神父になるにあたっての日本人らしい葛藤がとても面白かった。

    (P191)神学校のなかでぼくが、一番、批判を受けたのは、ぼくの無意識に潜んでいる、彼等から見て汎神的な感覚でした。日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります。よく見ればなずな花咲く垣根かな、は、ここの人たちには遂に理解できないのでしょう。もちろん時にはなずなの花を咲かせる命と人間の命とを同一視する口ぶりをしまうが、決してその二つを同じとは思っていないのです。

     遠藤周作その人がカトリック教徒のようで、本人の叫びそのものじゃないのかという大津の言葉が色んなところにちりばめられている。
     と、そんな真面目な大津を、美津子と言う女性がバカみたいと、教会に行かずに私の家に来なさい。と、神から大津を寝取ってしまう。そして、美津子は神を玉ねぎと呼び、大津を批判する。結局大津は、美津子に捨てられ玉ねぎの元へ戻っていくのですが、玉ねぎも気まぐれで、大津をツアーの行き先インドへと。そして美津子は大津に会いにインドに来てしまった。
     結局振り回されているのは、美津子なのだけど、大津の姿勢もさることながら、美津子がおっかなびっくりで宗教に触れている感じが、日本人なら共感できるに違いないと思ったり。

     また史実が挿入されていて、インディラ・ガンディー首相が暗殺されるという事件がツアー中に発生する。支持を集めていた首相が殺され、市民の気は立ち町は異様な雰囲気に包まれる。ここから、大変厳しい結末への引き金となっていくのだけれども、非常に色々な捉え方のできる史実を入れてくるのは中々面白いなと思ったり。

     そして、色んな背景の主人公がガンジス河で色々な面で抱えていた悩みから色々な手段で解き放たれていくのだけど、舞台としてガンジス河というのが面白いのですなあ。ガンジス河は人が死ぬために集う河。ガンジス河に自分の亡骸の灰が流されると、転生してよりよい生まれ変わりができるのだと。特に、カーストの厳しい国なのでよりその願望が強く、ヒンズー教とも相性が良かったと。その平素から死を迎え入れる河だからこそ、貧困に耐えやっと死ぬことが出来る人が集まる河だからこそ。
     やっぱりガンジス河は生で見てみたい気がしてくるなあ。多分、悲しみを味わいに行くところなのだろう。

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    『普通の愛』尾崎豊

     アガサちゃんの「アクロイド殺し」も面白かったし、
    三浦をしんの「船を編む」も面白かったし、

    田中ミエの「ダンナ様はFBI」も面白かったし、
    なんやかんや面白い本を読んでいるのだけど、ブログは後回しに。
    書かないと忘れるんだけどね。

     借りていたの尾崎豊の「普通の愛」を、あっ!と思い出して読んでいます。
     結局、この人の残したモノは、何もかも愛にあふれ、本気がこもっていて、天才としか思えない。尾崎豊の時代から、何も進化していないに見える昨今、ほんと申し訳ない気持ちにすらなる。
     こいつは、1991年の本。亡くなる1年前、I love youの年。どっかで聞いたようなせりふが山にようにあり、数々の尾崎節がどういう状況の下で生み出されてきたのか、見えてきて面白い。

     君のことだけを考えながら、明け方の高速道路を走っていた。

     始まりの一文。かっくいいね。かっくいい。言葉のリズムが美しく、スラスラ読める。

     「たたずむ瞬間」という小説が収録されている。
     これは、酒場で毎晩ピアノを弾いて小遣い稼ぎしている男の話。

     酔っぱらいは俺の教科書みたいなものさ。誰がそんなものを信じるかい。ただやつらは傷みを知っているのさ。二度と繰り返すまいと心に決めてきたものが、山ほどあるやつらさ。そしてやつらは覚えてきたそいつを忘れようと必死なのさ。

     酔っ払いやら、いちゃいちゃするゲイやら、娼婦やら、乞食やら、まー誰も聴いていない中で、酒と薬をやりながらピアノを弾く主人公。
     酔っ払いに「最低だな」と絡まれると

    「あぁ、俺の歌は教会の賛美歌みたいに聞こえるはずないさ。俺はあんたの人生について歌うつもりはないんだよ。」

    との返事。あんたの人生についてうたうわけじゃなく、自分の人生について歌っているんだろう。でも、あんたのために歌っていることは否定もしてない。若干のツンデレ感が。
     そんな誰もまともに聞いてはくれない酒場で、カウンターの婆さんだけは、接客をしながら聴いている。

     やっぱり、なんだかんだ支える一人がいて、とても輝いてしまうんだなーなんて。

    『若者殺しの時代』堀井憲一郎

     お久しぶりです。と。少し顧客の社長と飲む機会があるので、必要に駆られてネタ仕入れのために買ってみた。
     とりあえず、タイトルと内容は完全に乖離している本。普通に社会の変化を堀井氏独自のものさしで観測していく。

     携帯電話がどんな風に普及していったか調べるときどうするか。

     自分ならとりあえず販売台数の統計とか、新聞記事とか探しちゃいそうだけれども。
     この堀井さんは、月9のドラマでどこでどんな風に携帯が使われているかにより時代を探っている。。。面白い(P143あたりより)。
     最初に携帯を使用した月9ドラマは1989年1月の「君の瞳に恋してる!」の石田純一で、スポーツカーで中山美穂のマンションに乗りつけ、マンションの部屋の中山美穂と、車載電話を持った石田純一が見つめあいながら電話をするのだそうな。
     コレだけでも中々興味深い。

     目次を見ると、
    第1章 1989年の一杯のかけそば
    第2章 1983年のクリスマス
    第3章 1987年のディズニーランド
    第4章 1989年のサブカルチャー
    第5章 1991年のラブストーリー
    第6章 1999年のノストラダムス
    終章 2010年の大いなる黄昏あるいは2015年の倭国の大乱
    てな具合で、平成に変わった瞬間の年1989年から始まり、1983年から少しずつ現代に戻ってくる。

     最後は、タイトルに合わせようと無理な文章になっているけど楽しいのでオールOK!
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    『プラチナデータ』東野圭吾

     あけおめございます。
     例のごとく帰省中に読んだ本。

     東野圭吾は、あまりにもみんなが読んでいるもんで逆に読まないようにしていました。が、結局勧められたので読んでみましたよと。
     たかだか、国民総背番号制なんてのが紛糾する、意味不明な日本に住んでいるわけですが(んなもんちゃっちゃとすればいい)。その中である意味こーいう警笛本を出すというのは、東野さんも狙ってるのーなんて思うわけです。
     ところで、警察って今どこまで捜査の力をもっているんだろうと、気になっちゃったりもする本です。

     いやはや。面白い本でした。やっぱし人物描写はもうちょっとほしいなーなんて欲張りにも思いますが、テーマ設定とかは極めて考えさせられたし、中にちりばめられているメッセージもスキ。何よりも読み心地がすごくいい。
     いやー450ページくらい合った気がしますが、さらっと読めるのでお勧め。
     以下多少ネタバレ
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    原罪と追放、エデンの東⇒『アダムとイヴ』岡田温司

     コメントもめっきりなくなったこのブログですが、そらそうだわな。
     本の気になったところの要約するだけなら、あまりにも意味がない。多少は自分の知識やら考えを入れないとなー。などと思いつつ。アダムとイヴの続き。
     この本は四章構成です。
    第一章 人間の創造
    第二章 エデンの園
    第三章 原罪と追放
    第四章 エデンの東
     後半3章と4章、禁断の果実を食べて、追い出されて、そこで兄弟殺ししてさらいエデンの東に追い込まれると。
     テキストとしては、ひっじょーに短いのに、これだけの影響を後世に与えてしまうというのは…この解釈一つで戦争までおきるんだから。
     まーでも旧約聖書ってのは、良い面では人のあるべき姿とか、科学とかの、たたき台にはなったのかもしれないなと。「旧約聖書に書いてあることが正しい。」という前提があったからこそ、それに対する批判も生まれ、善悪の議論もできるわけで。
     個人的には、アダムとイヴはBonnie and Clydeみたいな、危険だけどなんとも言えない魅力も感じるなあ。まー失楽園だとかまさにそーいうのを感じた作品もあるわけだろうけれども。

    第三章 原罪と追放

     イヴとアダムが禁断の果実を食べてしまうことについては、ポジティブなものとネガティブなものがあるそうです。つまり、残されている絵を見れば、愉快そうに追放される絵と、いかにも悲観しながら追放される絵があるそうな。
     前者は尾崎豊タイプで、後者は調子にのりすぎて店から追い出される客とか。

    創世記 3
    1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
    2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
    3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
    4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
    5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
    6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
    7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
    聖書(新約聖書・旧約聖書)←ここより拝借

     なるほど、木の実を食べることによって、恥を善悪を知るものになることができたわけで。と思えば、未だにエデンの園にいるのではないかというような方もおられますねえ。

     この禁断の果実騒動をめぐっては、この著者曰く、旧約聖書内でも、イエスがいうにも、禁を破って果実を食べたイブやアダムは責めてはいないそうんな。
     このアダムとイヴが責められるようになったのはパウロのローマ人への手紙からだとか。曰く「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた(5.12)」「ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた(5.18)」「ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされた(5.19)」と、アダムをぼろ糞に言った上で、イエス・キリストを持ち上げているのでありました。
     ここにパウロさんが、ユダヤ教からキリスト教へと人の心を動かす苦心が見えるわけですなあ。

     この禁断の果実を食べることがよかったのか悪かったのか。これは、イヴの評価、ひいてはアダムとイヴを根拠にした性差別にも繋がっていくわけですね。最初に誘いに応じたイヴは罪深いとも言えるし、人に知恵を与えるきっかけを作ったともいえる。
     ただ、やはりここでパウロは「またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。(テモテへの手紙一2.14)」と…しかしこのテモテへの手紙の他のところも女性蔑視プリはひどいな。

     ところでこの原罪、色々議論は飛躍するもので、

    • ルソー:私有財産制こそが、いわば罪の原点である。この不正をただすことができるのは、「社会契約」にもとづく民主主義によってであり、教育に求められるのは、人間本来の「自然状態」を可服することである。(P125)
    • カント:原罪を、人間の進歩―動物性から人間性へ、本能から理性へ、自然から自由へ―として積極的に評価しようとる。(P125)
    • ヘーゲル:原罪こそが人間を人間たらしめるものだ。善悪を識別できる知恵の木の実を食べたために、絶対の満足を得られなくなる。罪はもっぱら認識にあって、人間は認識のはたらきによってうまれながらの幸福をうしなってしまう。(P127)
    • キルケゴール:原罪の本質とは、無限の選択の可能性を前にした人間の自由の不安のことにほかならない。(P128)
    • ニーチェ:人類の犯すより抜きの自己汚辱(P128)

     しかしながら、善悪の知恵こそが原罪というのはよく考えられているよなと思う。

    第四章 エデンの東

     創世記は四章に入ると、イヴは追い出されたた先で、兄カイン(農耕)と弟アベル(羊飼)を生み、アダムとイヴの物語から離れる。
     カインは土の実りを、アベルは羊の初子を供え物として神の差し出すも、神はアベルのものしか受け取らない。で、兄は怒って弟を殺してしまう。これが人間の第二の大罪だと。
     そして、カインは耕していた大地からも追われて、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んで、「街を建てた」のでした。
     これすなわち、旧約聖書で初めて人が街を建てたことになるようで。罪に感謝ですな。なお、ユダヤの伝統では、このカインの罪こそがノアの大洪水の元凶とも言われるとか。

     なぜカインの差し出し物はとらなかったのかのヒントとして
    カインと言う名前は「所有」という意味
    アベルは「神に(すべてを)もたらすもの」という意味
    があるそうな(P167)。
     ルソーが「私有財産制こそが原罪だ!」って言っているのは、土地を保有し果実だけをもたらそうとしたカインとのからみだったりするんだろうか。

     さてと。進化論を前提とする世界に帰りましょうか。

    アダムとイヴ、エデンの園⇒『アダムとイヴ』岡田温司

     挿絵が楽しそうなので、衝動買いしてしまった一冊。世界で最も有名なカップル「アダムとイヴ」。この2人がどう歴史的に、また、画や彫刻を持って美術的に解釈されてきたのか。
     結構面白くて、

    • アダムは両性具有じゃないと話が成り立たない?
    • リンゴを食べたことは人間にとって良かったのか悪かったのか?
    • 「エデンの園」はどこにある?
    • アダムとキリストの関係は?
    • 一角獣の起源は誤訳・・・

     いろいろ興味深い話題を提供してくれます。
     でもって、こういったそれぞれの自分勝手な解釈を見ながら、「あいまいな表現を自分の「理屈」に当てはまるように解釈する歴史」こそが宗教そのものなんやなと。そのある意味での滑稽さを楽しむには最適やなと。まーもうちょっと賢そうに言うなら、その時代の要請を移す鏡なんでしょうなと。

     と以下だらだらと書くつもりだけれども、その前にエヴァンゲリオンの話に。
     エヴァンゲリオンが旧約聖書的な用語を持ってくるのは、「人間特有の悩み」を描く中で、一つの答えとして「じゃあ、人間が生まれる前の世界に戻るか」という提示をするための道具に過ぎないんってことなんじゃないかと。だから物語での用語の使い方自体には象徴的な意味しかもたないと。
     それをエヴァのファンが厳密な意味や歴史的な解釈と関連付けさせようとしている様は、まさに宗教ができる瞬間ではないかと、面白いかも。

     以下備忘録的に、章立てに沿って特に興味深かったところだけ。
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    『世界史』William H. McNeil(西欧の優勢1500年~)

    ※P79くらいまででひとまず。長くなりすぎ。
    もとがわかってないから感想を書くにも時間がかかりすぎる!
    まー学生時代にサボったつけでござる。

    さてはて

     西暦1500年までは「文明の生活スタイルが、そのまわりの未開文化を圧して、時には、失敗を犯しながらも絶えず更新していく過程である。それはまた、中東、インド、ヨーロッパ、中国の四つの大文明の中心地の間に、大ざっぱな均衡が成立する過程でもある。(上P204)」。
     そして「1500年という年は、世界史においてもまた、重要な転回点となっているヨーロッパ人による諸発見は、地球上の海を、彼らの通商や征服のための公道(ハイウウェイ)とした。このようにしてヨーロッパ人は、人間の住み得るあらゆる海岸地方において新しい文化的前線を作りあげた(下P35)」
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